萌黄の章
「これ、何処へ行くのだイルカ。」
あちゃ、見付かっちゃった、と首を竦めて後ろを振り向く。裏の木戸口を潜る寸前に、祖父である海野屋三代目に見咎められたのだ。
「また一人で町に出る気か。そうやって揉め事を起こして、わしはもうお前の尻拭いをする気はないぞ。」
説教の言葉は厳しいが祖父の目は優しく、孫娘を本当に心配しているのが判る。だからイルカは言い返す事を躊躇う。ましてや自分はこの前も絡んで来たチンピラをのしてしまい、この界隈を仕切る岡っ引の、森乃の親分に揉み消してもらったのだ。祖父が懇意にしているお陰だと、イルカもそれはありがたく思った。
親分は噂に寄ると、ある大名のお庭番だったのが怪我で引退し、あるつてで請われて岡っ引になったのだという。まことしやかなその噂は、しかしイルカの目には真実と写った。観察眼と審美眼にかけては自信がある。だからこの回船問屋と、支店の雑貨屋を大きく出来たのだと、いい跡取りだねえと誰にも褒められるのは悪い気はしないが、一人娘だからと婿をとらなければならないのだけは最悪の気分になる。
父母が生きていれば、と正直思う。まだ何も考えたくないから、もう少し時間が欲しい。舞い込む見合いの話は、明日にでも婿をとれとの催促のように思えて、まだ花も開きかけのイルカには迷惑だ。いや友人達はとうに嫁入りして、こどももいたりするのだが。
それでもいつかは跡を取らなければならないのだ、と納得もし始めて、大人になってしまう自分を憂えてこうして度々外の空気を吸いたくなるのだ。
ああ、息抜きがしたい。
渋々店に出る。暖簾の外の通りを眺めていたら、森乃の親分が入って来て三代目を呼ぶ。何か面白い話でもあるかと、イルカはお茶を持って奧座敷に入った。勿論自分の分も忘れない。
「親分、その節はお世話になりまして。」
と殊勝な事を言っても、親分は言葉を濁して気を付けろと言うだけである。なんせイルカに稽古をつけた張本人だからだ。大店の一人娘だからほんの少しでも護身の為に、とイルカの両親が稽古に向かわせた先には、親分がいた。小さな時からの知り合いがこんなに凄い人だとは、と驚く程腕が立つ。イルカだけしか知らない忍者を思わせる身のこなしは、連れて行ってくれた両親と共に謎のひとつである。そう、イルカは両親の素性も知らなかった。夫婦して祖父の養子になったとしか聞いていなかったのだ。
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