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その目を覚ます切っ掛けが、松田の父の代から使えてくれていた猿飛ヒルゼンだった。
ヒルゼンは松田が孕ませた娘が破談になり城から消えた際に、自分の身内を娘に付かせて面倒を見てやっていたのだ。
だが城から消えた娘を探す事なく、直ぐに別の女中に言い寄っていた主君に我慢ならないと真実を打ち明けて。詮索されないような長屋に住む、母と生まれてひと月もたたない赤ん坊をこっそり見せてやった。
苦労知らずのお嬢様が泣き喚く赤ん坊と一緒に泣きながら、足袋も履けない貧乏暮らしで一生懸命に生きていた。ヒルゼンの援助も家賃と時折の米の差し入れ以外は断って、家でもできる着物の仕立てだけでそれでも赤ん坊の成長を喜ぶ日々だった。
松田は娘に土下座し、いつか迎えに来ると約束して時折顔を出すようになる。流石に松田にもいきなり二人を連れて帰ったところで、認めてもらえる筈もないとひよっこの自覚はあったのだった。
それからは父の一番の側近だったヒルゼンを、若い松田は過剰な程に側に置き政の導きを請うていた。先ずは立派になった姿を家来に見せる事が大事だ、と言われて。
だがやはり、ヒルゼンは罠に掛かる。
病床の父の為に妻を迎えたがどうにも解り合えず、ヒルゼンの方が自分よりも近しい悔しさに妻が画策した。共寝も二年の間に数回、それでは子もできる筈がないから邪魔者を排除すればいい。
ヒルゼンが木乃葉屋に婿入りしながらも武士でいられたのは、松田の父の口利きで請われたからだった。嘘で排斥されたヒルゼンはあっさりと刀を捨てた。
邪魔者は消えたと思ったが、それでも夫は振り向かない。松田の妻はとうとう夫の秘密を暴き、隠す娘に刃を向けた。
娘は死んだ。幼子は人が来たので確認できなかったが、息はなかった。と報告をした者は同じ位の小さな娘がいたから、目を開けたままこと切れた血まみれの母に縋り付く子供の姿に怖くなって逃げたのだ。
多分、死んでいる。いや、生きている。
気になって探ると、子を引き取った家族を突き止めた。それならいい。
男はその事実を胸に納めたまま自害した。
そうして今に至る。

イルカの部屋の外、この母屋にはカカシとゲンマしかいない。
「松田様とヒルゼン様との接触で、イルカ嬢ちゃんに何かあったらと心配はしたが。」
予想される事態になる前に草は刈っといた、とゲンマは欠伸をして首を鳴らす。侍であり忍びでもあるゲンマは、この異常事態は松田の妻が亡くなった為かとカカシに問う。
「んー、多分ね。あの奥方の親戚筋は、松田様のお子は息子だけでいいと言い放ったし。」
もう一度洗い直して母か娘が生きていたら息子の立場は危うい。だからイルカを殺す。
乗っ取りなんかさせるかと、カカシは片頬を上げて歪んだ笑いを見せた。
「イルカ殿の夢見は、そんなに当たるのか。」
「俺が嬢ちゃんに付くようになって、三件かな…人探しと失せ物探しと、猫探し。」
「全部当てたのか?」
カカシは思わず身を乗り出す。
「家出した放蕩息子は賭博場で簀巻きにされる寸前。土地の権利書が古紙の引き取り屋に持って行かれたが、無事に取り返せた。猫は三味線の皮になるところだったな。」
江戸の町の恐ろしさを身をもって知ったと、ゲンマは大袈裟に驚いた。
「それでは、イルカ殿の話が耳袋に載るのも無理はないな。」
納得するカカシに、まだ間者の割り出しが途中だからとゲンマは闇の中へ消えていった。
それから朝日が昇るまで、カカシは松田の警備と同じようにじっと辺りの気配を探っていた。
部屋の中のイルカが起きたようだ。だが起き上がったあと、そのまま動かない。
「イルカ殿?」
そっと声を掛ける。
「は、い…。」
返事は返ったが、まだ動く様子はない。カカシは腰を浮かし、失礼と障子を少し開けて中を窺った。
イルカは俯き両手で顔を覆い、僅かに全身を震わせていた。
泣いているのかと思ったが違う。どちらかといえば恐怖に怯えているように見えた。
「入ります。」
イルカには近寄らず、閉めた障子を背にしてカカシは座った。
「…すみません。」
くぐもった声は、まだ手で顔を覆ったままだからだ。
かえって気を使わせてしまったか。とカカシは後ろ手に障子を開けて、膝で外ににじり出ようとした。
「大丈夫です。夢見の後は頭が痛むのです。」
少し力が戻ったようなしっかりした声だった。
「それなら良かった。」
ほうと出た息は案外大きく、イルカがくすりと笑った。
「ご心配をお掛け致しました。着替えますので、その間にお食事をお取りください。」
木乃葉屋の夜番の男達が仕事上がりに母屋で朝飯を食べて帰るから、カカシの分も頼んであるとイルカは言う。
確かに腹は減っている。では甘えます、とカカシは台所へ向かった。
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