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その夜ひと晩カカシは自分の片袖を両手で握ったまま眠り続けるイルカの頭を、枕代わりに自分の胡座の太股に乗せていた。
厠にも行けず痺れた脚を動かす事もできず、冷めた茶で乾く唇を潤しながら背筋を伸ばしてただじっと座って朝を待つ。
武士としての修行を怠らずにいて良かったと、時折襲う眠気に抵抗しながらイルカを守る為にカカシはそこにいた。
代々松田家につかえる畠の、何代目かは忘れたが跡継ぎとして殿を守り抜いて死ねと言われる事に異存はない。
来年にはカカシも二十となるから、嫁をとって病弱な父を引退させたい。元服を終えた途端に父の仕事を継いではいるが、主君登城の際には父が添わなくては成り立たない仕事があるらしかった。
父の仕事の一つに今夜の話の娘探しがあったのだと、ゆうべから熱で床に臥せって急遽カカシを主君の護衛に付かせた父から打ち明けられた時には成る程と頷いたのだ。それは自分は役に立てない。
覚えているだろう、小さなお嬢様を。と話し始めた父は穏やかに笑っていた。
五つ六つの頃に数回、汚い長屋に父のお供で米や野菜を届けに行った記憶はあった。
乳飲み子を抱えたまだ幼い顔の娘を、カカシは赤ん坊の姉だと思い込んでしまった。藩の者だろうか、父母を失って私の父上が様子を見に来ているのだろう、と。
誰も何も語らなかったからそのまま心にしまい込み、今朝真実を知って驚いたのだ。
初めて見た時は泣くしかできなかったあの赤ん坊は次に会った時はちょこんと座り、言葉を発してカカシに抱っこをせがんだ。
その次には物の名前を一所懸命覚えている頃で、真ん丸な黒い目が可愛かったとだけ覚えている。
その子に会ったのは、その日が最後だった。
暫くの間将軍が変わるだのなんだのと、地方の藩は生き残りの策に駆けずり回らなくてはならなかった。幸い松田家は血筋のお陰で生きながらえ、畠の家も何事もなかったように今日まで続いている。
ただ病弱な母が、カカシの元服を待たずにこの世を去ったのが残念だったと今でも心が痛む。
あまりに暇で、つらつらと思い出すのはそんな事。真っ暗な部屋で眉をしかめて眠るイルカを見ていて、この娘は母がなくとも真っ直ぐだなとつい手を伸ばして柔らかな頬に掛かった後れ毛を払ってやる。
カカシの指先が擽ったか、イルカはもそりと顔を動かした。向こう側からカカシの目の前へ。
年頃の娘と一つ部屋にいる緊張は、慣れるどころか膨張するばかり。行灯に浮かぶイルカの滑らかなうなじと、触れた太股に感じる体温にカカシの胸の鼓動が跳ねっぱなしだ。
商売女の掃いた白粉より白く、艶かしい。
先程イルカを初めて見た時は特別器量が良いとは思わず、だが花が咲く寸前のかぐわしさを感じた。甘い、まとわりつくようなそれが今カカシを惑わせる。
「…んぅ…。」
夢でも見たか、イルカの薄く開いた口から声が漏れた。その声に疚しい心うちを見透かされたかと、カカシの全身に力が籠る。
起きませんように、と願いながらイルカの顔を見詰めた。
「…傷?」
カカシの袴に顔を擦り付けた為に化粧が剥がれている。鼻の上を一本よぎる線は、薄暗い行灯でははっきり解らないが皮膚を切り裂いた痕のようだ。
化粧で消せるなら深くはないのか。
カカシはそっとその傷痕をなぞった。薄くなった皮膚の下は微かに赤いがおうとつは指先にさほど感じられず、やはり深く切られたのではないと確認できてゆっくり安堵の息を吐いた。
真っ直ぐ、鋭利な刃物で。殺すわけでなく?
殺す、と頭に浮かんだ途端にカカシの背筋に何かが走った。
恐怖だ。何故、別にこの娘と私は今夜初めて会ったのに。何故、娘が殺されると思っただけで恐怖を覚えるのだ。
疲れているのだ、とカカシは何も考えないように息を整え身体中の力を抜いた。繰り返すうちにその恐怖は遠退いていき、漸くカカシは平常心を取り戻せた。
「何だったんだ。」
呟いてから、また恐怖に囚われそうで頭を振って他の事を考えようと努め始めた。
まさかこの短時間でイルカが気になりだしたとは、それでなくともカカシは自分の感情を抑える傾向にあるから全く気づかないのだった。
男の甲斐性だからと愛人情人は多いほど尊敬されるが、カカシには溜まる性欲を解消するだけの相手しかいない。それも心を通わせる気にもならない、日替わりの商売女だ。
女達もカカシの容姿を面白がり、家柄と金離れの良さに惹かれるだけだった。
武士らしく頭を結ってはあるが、髪の色は父から受け継いだ薄鼠色だ。肌もわざわざ日に焼いても、焼けたくないと家に引っ込んでいる女より白い。
よく見ると目も染め物屋の濃紺ののれんのような色だと、気味悪がられた事もある。
彫りの深い異人のような風貌が、カカシは心底嫌いだった。
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