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ほんのりと暖か色の明け方、まだ朝日は地平線で夜とせめぎあっているらしい。行灯の火はいつの間にか消えていたが、カカシは気づかなかった。
眠ってしまったのか、と慌てて膝のイルカを見ればくうくうと小さく鼻を鳴らしているさまが子犬か子猫のようで愛らしい。
主君の江戸での屋敷では、必ず寝ずの番が三日に一度回ってくる。日が落ちて登るまでを見回りしながら一睡もせずにいられるのは、緊張しているからだろう。
では今は緊張していないのか、主君の命だというのに。これではお役に立てない。帰ったらまた修行だ、とカカシは目を擦った。
ふと手の甲に触れた、自分の左目を縦に跨ぐ盛り上がった傷痕。父と登城するようになり、他藩の者に親子で容姿をからかわれた。仲間達の方がかっとし小競り合いでつけられた刀傷は、眼球には傷をつけなかったが不思議とそれ以来疲労を感じると黒目も白目もうっすら赤くなる。
カカシは自分の傷をなぞる。綺麗に塞がっているのは奇跡だと、医者自らが自分の腕を信じないかのように驚いていた。
イルカもやはり刀か包丁で切られたのか。それも手加減できる程の力量の者に。
じっとイルカの顔を見ていれば、ぱちりと大きく目が開かれた。見詰め合う、目が逸らせない。
「おはようございます。あたし、またやりましたか。」
慣れているのか、ゆうべ会ったばかりでひとことも口もきいていないカカシに親しげに話し掛けてくる。すっきりしたと笑って起き上がり、イルカは改めてカカシに三つ指ついて頭を下げた。
崩れた結い髪から、ぽとりと落ちたのはかんざしだ。お父様からいただいた物ですと大事そうに握り締める細い指が微かに震えていたのが、カカシの胸にしまわれて後に気もそぞろになる理由だった。
「まだいっとき程日も照らしませんから、お休みになりませんか。」
顔を覗き込むイルカにカカシは首を横に振る。
「私は貴女を守る為におりますので。」
「もう宿は動いておりますから、大丈夫です。」
その証拠にゲンマが廊下から声をかけた。
「イルカ嬢ちゃん、具合が悪い事はございませんか。」
「すっきりしています。ゲンマさん、畠様はもう宜しいのでしょうか。」
自分の意識がない間に、どういう取り決めがあったのかは知らないから。
ゲンマが障子を開けてカカシに頭を下げた。
「嬢ちゃんの夢見があればあったと、報告にお帰りくださいますように。」
イルカは思い出すように目を伏せた。
「夢…。」
頭が真っ白になる直前に浮かんだのは、話に聞いたその母娘が刀を持った男に襲われる場面だった。提灯を蹴り壊し、沈黙を貫きながら刀を振り回すのは侍。自分が小さな娘の視点となって母が覆い被さり庇われて、血飛沫が飛んで。
そこでぷつりと全てが飛び眠りに落ちたその後は何も見た記憶がない、怖い、こんな事は初めてだ。
何も見えなかったとごまかせばカカシが食い下がり、どんな小さな事でも思い出してくれときつくイルカの手を握った。
「畠様、イルカ嬢ちゃんの負担も考えてやってくださいまし。」
ゲンマが部屋に入ると後ろからイルカの肩に手を置き、母屋に戻るように促しながらカカシを睨んだ。
大丈夫だから、駄目です、と何度か繰り返す様子に、カカシはイルカを労れなかった事を謝罪して急いで場を辞した。

そのまま松田の屋敷に報告に行き、一度では駄目かと早く知りたくて落ち着かない主君にカカシは自分が通うと進言する。勿論主の気掛かりを取り除いてやりたい思いがあるが、イルカに会いたい気持ちを認めた上で。
「カカシ、その袴は何だ。まさかあの姫を。」
指をさされた膝上辺りは、イルカの化粧が擦れた跡がぼんやり白い。
「いや、その…枕代わりにされただけでございます。」
「腕枕ではなかったか。」
「松田様もご存知ではありませんか、あの娘御が私の袖を離さぬままでございました事を。」
頬が熱いのは自覚した。いつもなら無表情で返せたものが、イルカを思い出せばきゅんと胸が苦しい。
はっはっは、とからかうような笑い顔でカカシの側に片膝を付いた松田は、これが実を結んだ暁には父親の隠居を認めると言った。
つまりはカカシを正式に、畠の跡取りとして仕事を継がせるという事だ。
「わしも明日には帰らねばならん。次に江戸に来るのは三月後かのう。」
歩いて四日の少し北の地が松田の領地だ。将軍家の血筋は特権で参勤交代がなく、自由に領地と江戸の行き来ができた。多少の制限はあれど、松田はある意味勝ち組なのだった。
「では江戸居の者達と仲ようにな。」
廊下からではなく畳に呼んで話をする主君に親しみを持ち、目をかけてもらっている自負は自然とカカシに忠誠を誓わせていた。

翌日カカシは領地に帰る松田を見送った足で、また木乃葉屋へ向かった。
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