その昔、江戸から東海道へ出る手前の宿場に木乃葉屋という宿屋があった。木乃葉屋は歴史は長いがあまり繁盛はせず、しかし武家の三男猿飛ヒルゼンを婿に迎えて三十余年、今では界隈では一番大きな宿屋になっていた。
ヒルゼンは婿入りしながらも十数年前まで長らく武士であり続けた。妻は子供らが小さなうちに他界しそのうち兄姉が家を出て末のアスマが後を継ぎ、商家から小町と騒がれていた紅を妻に迎えていた。
また人前にはあまり出ないが、木乃葉屋にはイルカという娘もいる。漸く十五、大人らしい流行りの髪を結い兄嫁の紅程器量よしとは言わないが、イルカはどこか人の目を引き付ける所があった。

世間にはヒルゼンの隠し子と公表し引き取ったイルカだが、実はうみのという姓を持つ。
イルカの母は江戸近辺の上級武士の娘だったが、政略により江戸に嫁ぐ事になった。嫁入り前に台所でも洗濯でもいいからと、将軍の元で働き箔をつける事が求められたのは、釣り合いを気にする相手方による。
登城した大名の一人がイルカの母を見初めたのは偶然だったのか。
手籠めにされてイルカを身籠り、破談になっても一人で子を育てると泣いた母だった。世間知らずの十六の娘だろうときちんと責任を取って、長屋だが居を与え養育費を払い続けたその大名とは、酷い出会いだったが子を挟んで愛を育んだのだろうか。
しかし度々イルカと母に会いに行く夫が憎らしかった正妻が、イルカの母を辻斬りに見せかけ殺してしまった。それでも不幸中の幸い、頼まれた者には恐怖に泣き叫ぶ二つになったばかりの愛らしいイルカが殺せなかったのだった。
そうして母を亡くしたイルカの身寄りと言えば実家と父親の地方大名だが、長屋の者達はどちらも詳しくは知らずイルカの引き取り手は見つからなかった。
番屋預かりとなったイルカは、話を聞きつけたヒルゼンに引き取られた。大名が母娘に会いに来たのは事件の大分後、娘イルカの行方は知れずこれがさだめかと大名は諦めたのだった。
木乃葉屋に引き取られたその日、イルカは高熱で寝込んでしまった。三日の間山場と言われたが持ち直し、だがイルカはそれまでの記憶をなくし更には言葉を話せず話しかけられても理解できないようになる。
二つになったばかりとはいえかなり利口だったらしいイルカは、目の前で母親が血飛沫を上げて倒れた事で精神が崩壊したのではないかと医者は口ごもった。
しかし幸いな事にイルカはまだ二つ、アスマと紅は我が子のように手取り足取り一からイルカを慈しみ育てた。やがてイルカの言葉が戻り木乃葉屋の者にもなつき、すっかり家族に溶け込んで十三年たったところだ。

ヒルゼンとアスマが経営する表通りの宿屋は近隣にはない深夜営業をしている。よってよく物騒な事件が起きるが、家の者に被害が及ばないようにイルカの暮らすすぐ裏の母屋とは廊下一本も繋がっていない。
またそれだけでない理由もありイルカは隔離されていたのだ。
イルカは人に見えないものを見て、それと話ができるようになった。また夢で未来を見たり、探し人探し物を当てられるようになったのだ。
身内だけに限っていたが七つの頃か、宿屋の客が荷物を紛失しヒルゼンの命に関わる事態になった。特異な能力を非難されるとしても父を助けたい、とイルカは盗まれた荷物のありかを教えた。
それが話題となり、イルカは夢見を生業とする事になった。だが十を過ぎた頃から人の感情が僅かにだが解るようになり、イルカは人嫌いになって母屋に籠るようになった。

きい、と裏口の木戸が鳴って、座敷で文机に肘を着いてうたた寝をしていたイルカはその音で目を覚ました。
誰かしら、と呟いたイルカは着物の裾を膝まで上げて縁側から庭に降り、ゆっくりとそちらに近付いた。
「あら、誰かしら。」
閂の外れた扉が風に揺れ蝶番がきいきいと耳に痛い音をたてる。木戸口は正面川沿いの広場に続き両脇は小道、どちらを見ても人はいない。
イルカは辺りを見回し溜め息をつくと、すんと鼻を啜って胸の前で腕を組んだ。
「めんどくさい登場の仕方はやめなさい。あたしちょっと寒いから戻るわよ。」
イルカがくるりと背を向けると、その背に何かが飛び付いた。帯が崩れるからと怒って背中に手を伸ばすと、手のひらに柔らかな毛皮の感触があった。
「どうせ誰にも見えないんだから、まっすぐ部屋に来たらいいでしょう。」
毛皮をぎゅうと握ると甲高い悲鳴を上げて、その獣はイルカの足元に転げ落ちた。
腕に包み込むように拾い上げて、顔を覗くとそれはきゅういと小さく甘えた声で泣く。
「こらナルト、ひとがたに戻りなさい。」
ぴしりと叱るイルカの腕には子狐がいた。ナルトと呼ばれた子狐はイルカを見上げ、きゅういと鳴くと一瞬の後には五つ六つ位の子供の姿になって立っていた。
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