3

視線

「待って、イル、」
強く手を引かれてふらついたカカシは部屋の真ん中に敷かれた円形の敷物と畳の段差につまづき、イルカと共に倒れ込んだ。手を離す間もなくそのままイルカの上に乗るところを、空いていた片手を敷物に着いてなんとかイルカを潰さずに済む。
あっぶねえ、と呟けば寝転んだままカカシを見上げてイルカはけらけらと笑った。
「イルカ先生の方が酔ってませんかね。」
毛足の長い敷物はふわふわと気持ちが良い。カカシは腰を下ろし部屋の中を見回した。
女の子らしい色とりどりの小物がそこかしこに転がっている。縫いぐるみのキャラクターは、幾つかサクラに教わったがカカシには名前すら覚えられなかった物だ。
本棚の一角に纏めて置かれているのは土産物らしく、全て海洋生物のイルカだった。壁には卒業生からの寄せ書きか、色紙が何枚も貼られている。
あれは誰の物だ、とそれに気付いたカカシはじっと凝視した。
「これね、昔の彼氏のです。」
カカシの視線に気付いたイルカが起き上がり、あっさりと明かした。
「カカシさんが来るって判ってたら捨てといたんですけどね。」
存在すら忘れていたというそれは、色違いでお揃いのマグカップ。
玄関からすぐの台所は物を寄せて置ける壁が一方しかない為に、どうにも配置しきれなかった小さな食器棚は畳の部屋まで侵食していた。
数少ない食器はどれも二組ずつ。
ああ男と此処で暮らしていたんだ、とカカシは思いの外冷静でいられた。自分が童貞だからといって相手にも処女を求める訳ではない。それを言えば先が見えない刹那に生きる忍びの世界では、処女など十五才以下になってしまうだろう。
「ごめんなさい、嫌な思いをさせました。」
「いや、過去の事でしょ。ただそいつより早くイルカ先生に会えてたならこれまでの時間も一緒にいられたんだなあって、残念なの。」
正直な気持ちだが、カカシは恥ずかしくなって自分の手元に目を落とした。
イルカが喉が渇いているだろうと湯を沸かし、熱い茶を出してくれる。
「その人は私がナルトの担任になった途端に雲隠れです。」
明るく話すが、ずっとイルカがナルトを庇うように生きてきた事は子どもから聞いてカカシは知っている。
「受付で名前も見ないので、生きているかも知りませんし。」
擦れ違いばかりで実質半年も付き合っていなかったから、思い出も何もないと笑う。
「…カカシさんこそ。」
カカシの醜聞はイルカの胸に影を落としている。女の名前だけでも手足の指程耳に入っていたし、今では受付でイルカに無言の重圧を掛ける女達がいるからだ。
彼女らは首筋の鬱血の痕を態々見せ、鍵の束を振り回す。果ては摘まみ食いは美味しいのかしらね、と言い捨てるのだ。
カカシにしてみればまるきり覚えはないのだから、噂など頭上を飛び回る蝿にしか思えない。
だってオレは童貞だよ―とイルカに言ってやりたいがどうにも躊躇われた。好きな人でなきゃ嫌だなんて、馬鹿にされるんじゃないか。
「全部ただの噂だから、オレを信じて。」
素顔を晒したのはイルカだけ。
曖昧に誤魔化し、カカシは顔を伏せた。言うべきか、言わなければ、言ったらどう思う。
「オレさ、イルカ先生しか興味ないから。任務で関わったら名前位は記憶にあるかもしれないけど、顔と一致しない自信はあるよ。」
「何ですかカカシさん、そんな自信は。」
「イルカ先生だけを、ずっと見ていた。」
最初から、もう貴女しか見えていなかった。
予期せぬ甘い時間がやって来た。いやもしかすると今日は、という予感はあったのだけれど。
自然に顔が近付く。唇に触れる。
口付け位は今までもあったがちょっと舌が触れるだけで終わる軽いものだった。
この先はどうしたらいい、とカカシはイルカの口内に舌を入れながら考える。
本の描写を辿りながら口内を舌先で掻き回すと、イルカの舌先が追ってきた。絡み付かせる。
吸って甘噛みしてまた舌を絡ませて、苦しくなって離したら唾液でベタベタのイルカの唇は真っ赤に色付いている。僅かに開かれたままの口から漏れる声は、多分カカシを誘っているのだろうと思われた。
イルカの唇に付いた唾液をぐるりと舐め取る。完全に記憶した本の通りに。
本能的に動く部分はあれどなにせ未知の扉を開こうとしているのだ、カカシはぎこちない自分がもどかしい。
「壊れ物じゃないから、大丈夫です。」
優しく耳に吹き込まれ、カカシはとうとう来たかと頷いた。
「緊張してます。」
パニック寸前。覚えた手順は何処かに飛んで行きそうだ。
イルカの服を脱がせようと裾に手を入れると、そっと手が重なりそれを押さえる。もしや拒否かと身体が硬直したが、此処じゃ嫌とイルカはカカシの鼻先に染まった顔を寄せた。
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