始まり

魘されて飛び起きたカカシは、額の汗を手の甲で拭いながら溜め息をつき笑った。
「夢か…。」
夢を見ていた。内容は全て皮膚感覚まで鮮やかに甦る。
「イルカ、せんせ。」
カカシはそこに居ない人を包むように自分の身体を抱き締めた。

イルカはカカシが上忍師をしていた間に知り合った、当時の部下の忍者養成学校時代の女性担任。
カカシより幾つか年下ではあるが、同じように不遇な幼少期を過ごしたという背景を持つために親しくなるのにさほど時間は掛からなかった。
そして所詮は年頃の男女、手近で済ませた訳ではなかろうが彼らの環境が目まぐるしく変化する中で二人の関係も密に変化していく。
三代目火影の崩御から五代目の襲名まで慌ただしく過ぎる日々、誰もがギリギリまで個を抑え破壊しかけた里の復興に尽くした。未だ途中ではあるが漸く目処もたち始めた所で、気が抜けた途端に恋愛やギャンブルに目覚める者が続出している。
この二人も例外ではない。
「カカシさん。」
「あ、イルカ先生終わった?」
すり鉢に近い形状の冬の校庭は、火影岩から飛べない鶏でも滑空して移動できそうな強い風が吹き下ろす。待ち合わせなら何処か屋内にしようとイルカが提案しても、カカシは早く会いたいからとアカデミーの校庭でじっとイルカのいる部屋を見上げて待つのだ。
たとえどんなに遠くても、イルカと共に部屋にいる仲間達は忍びだからカカシの視線を感じて居心地が悪い。よってカカシと付き合い出してからは、受付でも職員室でもイルカは残業を言い付けられたためしがなかった。
イルカも申し訳ないと言う顔に朱を乗せて、お先に失礼しますという言葉の最後まで皆に聞かせる事なく脱兎のごとくカカシの元へ走る。
こっそりと窓の外の会瀬を覗く彼らは、不器用でまっすぐな二人を温かく見守っていた。
「今が一番盛り上がる時期だよな。」
「ですね。両片想いが出会いの頃からですもんね。」
「へーよく知ってるね。」
「こないだ酔わせて色々聞き出してます。」
仲良しの同僚は内緒、と人さし指を口に当てた。
イルカは全力でカカシの元へ走った。暖かな室内から出てみれば頬に当たる空気のなんと冷たいことか、とイルカは更に脚を速めた。
しかしカカシは任務の時よりは遥かにましだと、真っ赤な頬を緩ませてイルカに笑い返すだけだった。
「お待たせしました。」
「急がなくていいのに。」
定番の恋人同士のやりとり。幸せを感じながら、自然に手を取り合って歩き出す。
三代目が亡くなり、葬儀の後で道端で蹲って泣くイルカをカカシが拾った事が交際の切っ掛けだった。
拾った、と言うと今でもイルカは怒るがそういう状況だったのだ。
里の皆もあまりの悲しみに、道端のイルカになど構っていられない。イルカがカカシに拾われた時を思い出すに羞恥に悶絶する様相だったとしても、カカシに掛かってはどんな顔でも貴女は可愛い、のひと言で完結する。
涙だけでなく鼻水も涎も構わず垂れ流すイルカを笑いもせずに自分の胸を差し出したカカシに、長く抱いていた淡い薄紅色のイルカの想いは一瞬で真っ赤に花開いてしまった。
だが里一番の上忍が恋愛という場面で自分を相手にする訳がないと思い込む。
「もう我慢しません。ずっと貴女が好きでした。」
カカシのアプローチを躊躇いながら、毎日繰り返される好きです攻撃に三十五日目にとうとう本気だと気付いて頷いたイルカは、自分もずっと好きだったと言えなくてカカシの押しに負けた事にした。
「ホントは切っ掛けが欲しかっただけなんですよね。」
寄り添う二人の後ろ姿に目を細めて微笑みながら言うのはイルカの幼馴染みだった。彼は動体視力の良さを買われて時折カカシの下で動いていたのだ。
「切っ掛け?」
「お互いに、相手の事をさりげなく聞いてくるんです。」
でもバレバレなんで、と肩を竦めた男に一同は大笑いした。
「いつかくっつくだろうと静観していたら里がそれどころではなくなり、忘れていたらある日突然。」
「え、何よ。」
「夕方教室の施錠に回っていたら。」
「うん、それで。」
「片付けをしているイルカの教室に、カカシさんが。」
「いたの?」
「いきなり抱き締めて、ぶちゅっと。」
「ぶちゅっと?」
「僕に気付いたカカシさんがしっしっと手で追い払うんでその後は知りませんけど。」
「何それーっ!」
きゃあきゃあ騒ぐ女性陣を余所に、男性陣は目を合わせてにやにやしていた。
「まさか教室でそのまま。」
「いやいや、ポンと消えてカカシさんちのベッドの上だろ。」
「強そうだもんなあ。」

カカシがイルカを抱く夢で魘されている、なんて誰も信じないだろう。
実は、カカシは童貞だとはイルカでさえも知らなかった事。
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