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三十一
触れられた肩がぴくりと拒絶する。気付かない振りをして、後輩はイルカを食事に誘った。このまま帰ったら何も食べないでしょう、頬がこけたら美人が台無しですよ、と少し明るくおどけて見せる。
イルカも無理矢理笑顔を作り、では一楽でおごって下さいとうなづいた。

眠れない夜。ゆうべは気が張っていたし、皆で仕事をしていたからまだよかったが。
泣きたいのに泣けない。
思えば両親を亡くした時から声を上げて泣いた記憶がない。涙は零れるがそれで終わり、だった。
喜怒哀楽の感情はあると思うんだけど、と何十回目かの寝返りを打ちながら自分について考える。
ああ、私はあの人に悪い事をしたんだよな。あんなに素っ気なくして嫌な思いさせて。
ふとカカシの事が気になった。火影以外の死亡者の中にカカシの名はなかったが負傷者はかなり多かったから、名前と負傷の状況はアカデミーの正門の掲示板に貼り出してあった。強いカカシは怪我もしないと思い込み、掲示板は見ていない。
そう思い返した途端、きゅんと心臓を握られたような痛みと苦しさがイルカを襲う。
あの中にはいない筈だが相手はあの大蛇丸だから、カカシですら無傷ではいられないかもしれない。それどころか大怪我をして動けない可能性もある。
嫌な汗がにじみ出した。
イルカは殆ど眠れないまま朝を迎え、疲労は取れないどころか蓄積していた。
朝一番に入院リストを調べたがカカシの名前がないと、イルカは不謹慎だが拳を作って喜んだのだった。

よく晴れた朝、アカデミーの校庭は火影の葬儀のために、忍び達と里の人々でぎっしりと埋まった。
棺の正面には親族が並んだがイルカは親戚同様と見なされ、また孫の木ノ葉丸の担任であるため、泣きじゃくる木ノ葉丸と共に最前列に立っていた。
イルカは木ノ葉丸の肩に手を置き火影様がおっしゃっていたのはね、と話し掛けながらしゃがみこみ頑張れ、と額を合わせた。
カチリとハチガネが鳴った。
「これは私達の誇りだよね。」
うん、と勢いよく頷くと木ノ葉丸は額宛てを大事そうに撫で、イルカの首に抱きついた。
「オレは、里の皆もイルカ先生も守るんだコレ!」
まだ幼いが確かな意思を持つ教え子を誇りに思い、イルカはその頭を撫で続けた。
葬儀の間に皆の心のような黒い雲が空を覆い、やがて雨が降り出した。その場を離れがたい人々も本降りになる前に帰り始める。
最後に、と忍び達が棺の火影の顔をひと目見て手を合わせていくが、イルカには出来なかった。血の気もなくただ横たわるだけの姿など今までいやという程見てきたが、今回だけはどうしても見られない。
なのにそこから離れる事も出来ず、雨が大粒になって辺りがしぶきで煙り出そうがずぶ濡れになろうがただ棺を見詰めていた。
誰もが心配して帰ろうと言うが、イルカには聞こえていないようだった。
大きな影がイルカの背後にのっそりと現れ、傘を差し出した。突然雨がさえぎられても気付かず、イルカは立ち続ける。
「泣きなさい。」
優しい、落ち着いた声。振り向かなくとも判る、カカシだった。
イルカの肩の力が抜ける。
「泣いていいんだよ。」
呪文のように反応してしまう。震えが収まらない。
振り絞るような声がイルカの口から漏れ出すと、カカシは前に回って自分の胸にその頭を押し付け、空いている腕でそっと抱き込んだ。
イルカの固まった心が自然に溶けていくようだった。おえつが次第に大きくなると、カカシは傘を放り出して両手でイルカをきつく抱き締めた。
雨の音に泣き声は消され、イルカは安心して大声で泣き続けた。カカシの背中に回された腕にも力が籠り、しかし泣き疲れて気付けば腕は痺れ頭が痛い。
声が止んだ事で、気が済んだのかとカカシは腕を緩めてイルカの顔を覗き込む。
駄目、とイルカは顔をそらして目を合わせようとしない。少し間をおいてごめんなさいと、かすれて殆ど出ない声でカカシに謝ったが、何の事だとカカシはとぼけた。

後輩の男が抱き合う二人に近付いて来る。
あ、とカカシは男を見た。
「失礼、婚約者がいたのに差し出がましい真似をして。」
後輩はいいえと首を振り、そんな関係ではありませんと答えた。二人から、少し距離を置いて。
「僕の片思いです。」
俯くイルカの顔が歪む。違う、と言ってあげられない。
カカシも返す言葉が見付からず、ふいと目をそらせた。
判っていたんですよ、と静かに言って後輩は空を見上げた。雨は殆ど上がって、黒い雲は去り始めていた。
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