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二十五
イルカの前に出された報告書を横から受け取りお疲れ様でした、と言った男の挑むようなその目の理由が、カカシには判らなかった。恨まれる事をしたかと記憶を辿っても、この男と任務で一緒になった事もない筈だと首を傾げるだけだ。
イルカをちらりと窺うと少し落ち着かない様子で、原因は彼女かと納得しかけしかし言いようのない何かがカカシの中に沸き上がり、思わず男をにらみ返した。
さすがにまずかったと唇だけで詫びをいれた男とカカシは、牽制するようににっこりと笑いあった。
何か因縁つけられてるみたいだな。オレ、イルカ先生に何もしてないよな。いや、知らないうちにやったかな。
解らないけど取り敢えずごまかしとくかな。とカカシは笑ったまま、それじゃまた明日、とイルカに最上級の流し目を送った。それは無意識に、天然に。
カカシが去った後の、頬を染めたイルカにあからさまに不機嫌な顔をした男は、深夜勤の忍びが来た途端にイルカの腕を掴み歩き出した。イルカには彼の機嫌の悪い理由が判らない。カカシとの間に今さっきあった事など全く知らない。
鈍感なんだから、と拗ねる年下の男は駆け引きもまだ使えず、一直線に気持ちをぶつける。ただそれが、黙っていても解って欲しいという幼い想いだと、本人が理解出来ていないのが問題なのだ。
何を怒っているのよ、と思いながらイルカは手を引かれるままについて行く。忍びという刹那に生きる職業柄か周りに気分屋が多く、振り回される事には慣れているのだ。逆らうのは得策ではないと身をもって、充分過ぎる程知っている。

飯どころと暖簾の掛かった店に連れて行かれた。男の行き付けらしく、座ると同時に小鉢やらが次々と並べられた。気まずさがそれによって拡散され、イルカはほっとした。目の前の男もそう思ったのか、溜め息と共にゆっくりと笑顔が戻った。
今日は奢りますから好きな物を頼んで下さい、と言われたイルカは素直に幾つか注文をした。しかし酒を飲む気分ではなく、酔えばまずい事を言いそうで、間を持たすように当たり障りのない事を選んで話題に上げた。
店を出てまた明日、と別れる間際に後輩はいつにない真剣さで言った。
「僕が貴女を守るから、ついてきて欲しい。」
返事が出来ない。ここで決める事なんて無理だわ、と思ったイルカの顔はそれほど苦悩の表情だったのか、当の本人は目を伏せ笑って頭を振った。
「ごめんなさい、そんな顔をしないで。今すぐ返事を貰おうだなんて、無理を言ってしまいました。」
と言ってさっさと消えた男に向けてイルカは、条件反射で手を振っていた。
で結局、私はどうすりゃいいんだろ。一日に二度もあんな事言われちゃったよ、凄いなあ。ああ何か、他人事みたい。
思考は進まない。昼間からそこで止まったままだ。
友達に同じような事を相談された時はなるようになるなんて言わなかったかしら。
いいや、とにかく帰ろう。

イルカは部屋で一人になりたくて早足で歩いていたが、アパートの前でぴたりと足が止まった。犬がいる。
アパートの門の前で、小さな犬がちょこんと座ってイルカを見ていた。薄暗い街灯では判りづらいが、見た事のある顔のようだった。
イルカと目が合うと小走りに足元に寄って来て、くるくると周りを回る。
「あれ、パックンじゃない。どうしたの。」
こんな時間にまさかカカシの忍犬がいるとは思わなかったから、驚いた。
「いや、カカシが気にしてたのでな。お前の様子がちょっと変だったと、自分が何かしたのではないかと独り言がうるさくてかなわんから見に来たわけだ。」
イルカの手に頭を擦り付けながら満足そうに目をつむる犬は、何でもなければそれで良いがと呟いた。そんな細かい気づかいも飼い主のカカシに似ていると、イルカは目を細めてそっと犬を抱き上げた。
抱き締めて顔を寄せご主人様にはずうっと迷惑掛けてるね、と言ったイルカの声は僅かに震えていた。パックンは暫く黙っていたがカカシは馬鹿だからなぁ、と鼻を鳴らしイルカの腕からすり抜けて地面に降りた。
「よその里の女がカカシに会いに来てな。あいつもワシら忍犬も匂いに敏感だからな、香水にへきえきしたぞ。」
だがカカシが言うようにお前の髪はいい匂いだ、と言うとにっと歯を見せ人間のように笑って、忍犬はぽんと消えた。
ああ、雨の里の上忍だっけ、あの綺麗な人。カカシ先生に釣り合う人。
カカシが自分を気に掛けていると言われた事などすっかり忘れて、イルカは落ち込む。
後輩の事も片隅に追いやられ、イルカの心はあの時見掛けた二人の姿で一杯になった。
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