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十六
優しすぎるよ。もうこれ以上好きになりたくないのに。
嬉しいような悲しいような思いに、胸の奥が痛む。
片思いってこんなに切ないもんだっけね。
つぶやきは知らず口からこぼれていたらしい。職員室の隣の席で、同僚が問い掛けてきた。
「なんだよ、二日酔いか? 上忍様のお背中は寝心地良かっただろうが。」
うおっ、知ってるんかい。
とイルカはふざけておののいてみた。そこへ授業の始まりを知らせる鐘が鳴り、イルカは席を立って逃げ出した。
少しずつ距離は縮まった、と思われたが実際の距離は果てしなく遠かった。
イルカは授業の後に任務受付に入る事もあるので、噂は全ていやおうなしに耳に入って来る。
今日イルカの隣に座っているのは、情報通と言われる中年の男だった。仕事で関わる事は少ないが妙に気が合う、温厚な性格の特別上忍である。
雑談しながら報告書を待つ。それでもまとめ上げなければならない書類は二人共山積みで、素早くめくりながら書き込む手は止めない。
イルカの特別任務の話が出た時そういえば、と男は顔を上げた。
アスマと紅がきちんと付き合い始めた事も、特に誰にも話していなかったが既に耳に入っていたようだ。それも出歯亀ないやらしいものではなく、かなり正確である。さすがですね、と感嘆すると男は更に続けた。
「うちの上司がね、カカシ君がアカデミーの事務の女の子と付き合ってるって言ってたけど。私は知らなかったんだけど、どうかねえ。」
さらりと振られてイルカは返事が出来なかった。しかし思い当たる節はあった。カカシにまとわりつくように、姿を見れば全く見当違いの話でも構わず話し掛けている、二十歳そこそこの女の子がいた。笑いながら答えるカカシは、それは違うよと否定する言葉さえも優しい、とイルカは思うのだった。かなり詰まった話をしていてもするりと間に入って来て、自分の方に向かせてしまう。若さゆえの恐いもの知らずだとうらやましくもあり、カカシにだけはうまく冗談も言えない自分が嫌になる時でもあった。
また少し胸が痛む。けれど今度はきりきりと、刺すように。
仕事に集中出来ないから、ちょっとだけ許して。
と、イルカは筆を置き肩で息を付いた。窓の外はほの赤く薄暗い。
もうすぐ帰れるけど、…帰るのやだな。一人になりたくない。
一人になれば、必ずさっきの話を思い出すだろう。カカシが誰かと付き合っているなんて、イルカにとってあまりにも残酷な仕打ちでしかない。
最近のカカシは里から出る任務が多く、イルカも多忙を極め、挨拶だけしてすれ違うばかりだった。カカシが誰と何をしているのかも全く知らなかったが、それでも自分は誰よりも近いのではないかと、思い上がり、勘違いをしていたようだ。
うぬぼれていた報いだわね。
イルカは形だけの微笑みを隣に向けて、上がりますと席を立った。具合が悪いのかと聞かれたが、力なく首を振り疲れただけですと更に口角を無理に上げ、から元気を見せて部屋を出た。

イルカには勿論、まっすぐ帰るつもりなどない。最近は遅くまで開いている店も増えたからと、何も考えられないようにくたくたになるまで何件も服や小物の店を回って、結局買ったのは願掛けの手作り人形一つだけだった。
狭いアパートの部屋で、その粗末な外国製の人形を眺める。これで効くんならあと百個買うわ、と思いながらイルカは握り締めて目をつぶり、心で願い事を唱えた。
カカシ先生ともっと親しくなれますように。
息をつめて真剣に、何度も願う。
イルカははぁと溜めていた息を吐き人形を離すと、畳に寝転がった。
なんかな、馬鹿みたい。
涙が浮かぶのが判り、何度もまばたきをしてこぼれないようにと努力する。誰も見ている筈もないのに我慢するのは、イルカの昔からの悪い癖だ。
よし、と声に出して起き上がると日常に戻った。半額で買って来た出来合いの惣菜を口に運んだが、ぼそぼそして飲み込めない。胸につかえるようで苦しくて箸を置いた。寝てしまおうとベッドに転がると、疲れがじわりと体の表面に浮かび上がってもう手足が動かない。柔らかなシーツのお日様のような匂いが誘眠剤の役割を果たして、イルカは目をつぶった途端に眠ってしまった。

二日続けて朝風呂に入る事になり、イルカは学習しない自分を馬鹿だと半分本気で思ったのだった。
ひと晩立てば落ち着くものなんだわ、と鏡に向かい肌の調子を確かめ笑う練習をして、イルカは顔を上げて玄関を出た。
まぶしい程晴れ上がった空は雲もなく、彼方まで青い。この位気分も晴れたらいいのに、と空を見上げながらイルカは思い切り空気を吸った。
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