11 月齢十
中忍の女の件はカカシに報されなかった。その頃イルカの見張りの忍犬はイルカとの口寄せ契約の結び直しの為に、呼び戻されたカカシの元に居たからだ。犬はイルカが帰宅してから戻ったので、既に自己完結を終えたイルカの表情は、忍犬には読み取れなかっただろう。
浅い眠りで何度も寝返りを打つイルカを訝しんで、犬は前脚をベッドの上につきイルカの顔に鼻先を近付けた。ふがふがと鳴るその犬の鼻息のくすぐったさに心の凍てつきは溶け、ついおいで、とベッドの上に乗る事を許可してしまった。
シングルベッドに大人の男程の大きさの犬が乗ると流石にぎしりと音を立ててマットレスは沈み込み、イルカは思わず手足を縮めて丸くなった。
イルカが退いた場所によいしょと体を投げ出して、犬は伏せの姿勢になった。一緒に寝ようと言って犬の首筋に手を掛けようとして、イルカは手を引っ込めた。急所に手を出してはいけないのだ。
しかし犬は構わず頭をイルカの頬や顎に押し付け、かまってというように力を篭めた。
イルカは忍犬を体中で抱き締めながら、獣の匂いとふさふさとした毛並みを喜んだ。無類の動物好きで、実は忍犬達に触りたいと常々思っていたのだから。
カカシ先生の身長もこの位だったかしらとふと思って、どきりとする。あらぬ事を考えそうになり犬の毛に顔を埋めて無理矢理眠りにつくのだった。
朝、アカデミーに向かうイルカの足取りは少し重かった。二日も続けて嫌な思いをしたのだから無理はないだろう。
今日も受付に座らなければならないのだと思うと溜息が出る。睡眠不足の身には太陽が少し眩しい。
まだ目には痛いままの夕焼けの光の射す窓辺で、イルカはもう少しで上がれると喜んでいた。今日は何も起こらずに済みそうだと。
賑やかに数人の若い女達が入って来た。しかしイルカの姿を認めると皆一様に黙り込み、睨み付けながらイルカの前を通り過ぎ、隣に並んで報告書を提出していった。
小さな声でこちらへどうぞと言ってみたが、聞こえないといった風情で無視された。
イルカの隣の男に声を掛けてきゃあきゃあ騒ぐ女達の高い声が煩わしく、目の奥が熱くなるのが解り、慌てて席を立って開いている窓を閉めに行く。少し寒いと心で言い訳をして。
イルカが席を立った一瞬、女達の声が止み目がこちらに集まる。だがすっと視線を外され、喧騒はまた始まった。
ほんの十数分程度だった。その間にイルカにも報告書の提出は何件もあり気が紛れたので救われたのだが、時折感じる女達の視線が痛い。
明らかに敵意だった。昨日の中忍の女と同じ感情が篭められているのが解って、イルカは指の先から冷えていくのを止めようと、力一杯両手を握り締めたのだった。拳が白く、震える。
女達が受付所から姿を消すまでイルカは耐えたが、最後の一人が見えなくなった途端にふっと力が抜けた。隣に座る男がイルカの顔色に気付き、ちょうど時間だから帰れと言う。これから混み出すから居ると帰れなくなるぞと、イルカの分の書類を自分の方に寄せて鞄を放る。
力無く笑って礼を言うと、イルカはのろのろと歩き出した。夜の帳はまるでカーテンのように空から降りて来ていた。山際に残る夕焼けはあっという間に消え、大分丸くなった月が代わりに存在を示し始めた。イルカは下を向いていたので気が付かない。
なかなか足は進まなかったが、それでもアパートには着いてしまう。立ち止まり、ふうと息を吐いて自分の部屋を見上げた。
暗闇の中外灯に人影が浮かび玄関の前に佇むのを確かめれば、カカシではないか。イルカは何も考えず階段を駆け上がり、カカシに向かって走った。
イルカの姿がアパートの前の道に見えた。オレを見付けて走り出す。息を切らしてオレにぶつかるように飛び込んで、胸に顔を埋めて来るのが堪らなく愛しい。
―泣いている。オレに縋って泣いている。何があったのか、こんな泣き方はおかしい。落ち着いてと声を掛ければ、鳴咽を堪えるように歯を食いしばる。
とにかく中へ、と鍵を受け取り開けてやる。触れた指の冷たさが何かをオレに伝えようとしているが、今はイルカを落ち着かせなければならない。
オレに抱き着いたままのイルカを抱き上げ、多少躊躇したもののベッドにそっと降ろした。鳴咽は次第に小さくなり、オレの服を掴む手も力が抜けて来た。静かなイルカの顔を覗き込むと、泣き腫らした顔で眠っている。オレは少し気落ちしたものの、イルカを胸に抱く喜びには勝てない。ぐっすり眠るイルカに口付けて、その柔らかな感触をたっぷり味わった。さてどうしようかと少し悩んだが、まあいいかとベストを脱がせ髪を解き、オレも軽装になるとイルカを抱いたまま、ベッドに潜り込んだのだった。
中忍の女の件はカカシに報されなかった。その頃イルカの見張りの忍犬はイルカとの口寄せ契約の結び直しの為に、呼び戻されたカカシの元に居たからだ。犬はイルカが帰宅してから戻ったので、既に自己完結を終えたイルカの表情は、忍犬には読み取れなかっただろう。
浅い眠りで何度も寝返りを打つイルカを訝しんで、犬は前脚をベッドの上につきイルカの顔に鼻先を近付けた。ふがふがと鳴るその犬の鼻息のくすぐったさに心の凍てつきは溶け、ついおいで、とベッドの上に乗る事を許可してしまった。
シングルベッドに大人の男程の大きさの犬が乗ると流石にぎしりと音を立ててマットレスは沈み込み、イルカは思わず手足を縮めて丸くなった。
イルカが退いた場所によいしょと体を投げ出して、犬は伏せの姿勢になった。一緒に寝ようと言って犬の首筋に手を掛けようとして、イルカは手を引っ込めた。急所に手を出してはいけないのだ。
しかし犬は構わず頭をイルカの頬や顎に押し付け、かまってというように力を篭めた。
イルカは忍犬を体中で抱き締めながら、獣の匂いとふさふさとした毛並みを喜んだ。無類の動物好きで、実は忍犬達に触りたいと常々思っていたのだから。
カカシ先生の身長もこの位だったかしらとふと思って、どきりとする。あらぬ事を考えそうになり犬の毛に顔を埋めて無理矢理眠りにつくのだった。
朝、アカデミーに向かうイルカの足取りは少し重かった。二日も続けて嫌な思いをしたのだから無理はないだろう。
今日も受付に座らなければならないのだと思うと溜息が出る。睡眠不足の身には太陽が少し眩しい。
まだ目には痛いままの夕焼けの光の射す窓辺で、イルカはもう少しで上がれると喜んでいた。今日は何も起こらずに済みそうだと。
賑やかに数人の若い女達が入って来た。しかしイルカの姿を認めると皆一様に黙り込み、睨み付けながらイルカの前を通り過ぎ、隣に並んで報告書を提出していった。
小さな声でこちらへどうぞと言ってみたが、聞こえないといった風情で無視された。
イルカの隣の男に声を掛けてきゃあきゃあ騒ぐ女達の高い声が煩わしく、目の奥が熱くなるのが解り、慌てて席を立って開いている窓を閉めに行く。少し寒いと心で言い訳をして。
イルカが席を立った一瞬、女達の声が止み目がこちらに集まる。だがすっと視線を外され、喧騒はまた始まった。
ほんの十数分程度だった。その間にイルカにも報告書の提出は何件もあり気が紛れたので救われたのだが、時折感じる女達の視線が痛い。
明らかに敵意だった。昨日の中忍の女と同じ感情が篭められているのが解って、イルカは指の先から冷えていくのを止めようと、力一杯両手を握り締めたのだった。拳が白く、震える。
女達が受付所から姿を消すまでイルカは耐えたが、最後の一人が見えなくなった途端にふっと力が抜けた。隣に座る男がイルカの顔色に気付き、ちょうど時間だから帰れと言う。これから混み出すから居ると帰れなくなるぞと、イルカの分の書類を自分の方に寄せて鞄を放る。
力無く笑って礼を言うと、イルカはのろのろと歩き出した。夜の帳はまるでカーテンのように空から降りて来ていた。山際に残る夕焼けはあっという間に消え、大分丸くなった月が代わりに存在を示し始めた。イルカは下を向いていたので気が付かない。
なかなか足は進まなかったが、それでもアパートには着いてしまう。立ち止まり、ふうと息を吐いて自分の部屋を見上げた。
暗闇の中外灯に人影が浮かび玄関の前に佇むのを確かめれば、カカシではないか。イルカは何も考えず階段を駆け上がり、カカシに向かって走った。
イルカの姿がアパートの前の道に見えた。オレを見付けて走り出す。息を切らしてオレにぶつかるように飛び込んで、胸に顔を埋めて来るのが堪らなく愛しい。
―泣いている。オレに縋って泣いている。何があったのか、こんな泣き方はおかしい。落ち着いてと声を掛ければ、鳴咽を堪えるように歯を食いしばる。
とにかく中へ、と鍵を受け取り開けてやる。触れた指の冷たさが何かをオレに伝えようとしているが、今はイルカを落ち着かせなければならない。
オレに抱き着いたままのイルカを抱き上げ、多少躊躇したもののベッドにそっと降ろした。鳴咽は次第に小さくなり、オレの服を掴む手も力が抜けて来た。静かなイルカの顔を覗き込むと、泣き腫らした顔で眠っている。オレは少し気落ちしたものの、イルカを胸に抱く喜びには勝てない。ぐっすり眠るイルカに口付けて、その柔らかな感触をたっぷり味わった。さてどうしようかと少し悩んだが、まあいいかとベストを脱がせ髪を解き、オレも軽装になるとイルカを抱いたまま、ベッドに潜り込んだのだった。
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