1 新月 月齢零
暗く音もない山道をオレは一人、ひた走る。
空に月は見えず、今日は新月だったと思い出す。
オレの中で騒ぎ出す何か。腹を食い破るような感覚。顔に張り付く乾いた返り血が、笑いと共に崩れていく。
あの人の笑顔が浮かんでオレは想像の中で犯し、泣かし、壊した。
イルカ、イルカ、なんて甘い響きなんだろう。舐めて噛ってしゃぶって、オレの中に取り入れて。
でも、無理矢理なんてオレの流儀に反するからね。んーどうしよっかなあ。
オレは夜空を見上げて、立ち止まった。笑いが込み上げて堪らない。声を出して笑ってしまった。
次の新月までにあの人を手に入れるんだ。ガイの自分ルールのようにオレはそれを決意すると、途端にこれから先の毎日がとても楽しそうに思えて、また声を上げて笑った。
ひと月は退屈しないだろう。いやいや、その後もずっとあの人を閉じ込めて、オレのものにして、一生可愛がってあげるんだ。他所の国で見た綺麗な鳥籠がいいかな。
―久し振りの殺人だったから。
でもこの夜はよく我慢したと思う。この熱を何処で発散することもなく、寝床にたどり着いて―そうただ寝るだけの物置と化した部屋で明日からの事を思い、イルカの事を想い、一人で抜いた。虚しい筈の自分の手が、オレ自身をイルカ以外に突っ込まないと決めたこの夜は、何と気持ち良かったことか。
ああ、イルカに会いたいと、ひと目だけでもと、手に出した白い粘液を見ながら片頬を上げて笑った。イルカを想うだけでまた立ち上がるオレを沈めるために風呂に向かう。
日付が変わる頃、オレはイルカのアパートの前に立っていた。
二階の左端の部屋にはまだ灯りがついていた。カーテンの向こうに動く人影が見える。
オレはわざと気配を必要以上に漂わせていた。気がつかないかと、窓が開かないかと。
そっと、躊躇いがちに道路に面した窓が開く。辺りを伺うように顔を出したイルカは、もう寝ようとしていたのか髪を解き、胸元の鎖骨が浮き出てむしゃぶりつきたいほどに色っぽい。普段はきっちりと着込んでいるから、こんな姿は目の毒だが眼福でもある。
オレは自分を押さえ込み、足を踏ん張ったまま見つめ続けた。動けない。顔が見られたら帰ろうと思ったのに、動けない。何という事だ。
イルカがオレに気がついた。オレを見つめる。オレが見つめる。
そのままどれくらい経っただろうか、遠くで犬の遠吠えが聞こえてオレ達は我にかえった。
イルカが動揺したのがわかった。大きく見開かれた目と、今にも何かを言い出しそうな口と、少し窓から乗り出した体。
オレは咄嗟に逃げ出した。いやこれも計画の内。明日になればイルカはオレを意識する。今までもお互いに思わせぶりな所はあったが、勘違いの域は出ていないから。
この均衡を破るのはどっちだ?
願わくは向こうから堕ちて来て欲しい。オレが誘ったからなんて言い訳作って、きっと寸前になったら逃げてしまうから。自分に厳しいあの人は、自分から踏み出せば絶対逃げ出さないし、言い訳もしない。そう、オレを選んだのは自分自身なのだと思わせなくてはならない。
よし、まず第一歩は成功。
オレはイルカの姿を目に焼き付け、興奮が治まらないまま布団の上で寝返りを打つ。
漸く明け方近くになってほんの少し眠った。寝不足の筈なのに、オレの頭は冴え、気持ちがいい。時間通りに到着した事に、下忍の子ども達は驚きを隠せないようだ。そうだろう、オレも驚いている。
今朝は受付にイルカがいるのは知ってるから、オレは殊更に明るく振る舞う。
「お早うございます、イルカ先生。」
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