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五月 その三
カカシは立ち止まり、振り向いた。料亭の明かりは点のように小さく、入口前にはもう誰もいない。淋しくはあるが、心の何処かで安心もした。入り込みすぎたかと、先程紅に釘を刺された事に気付いて、愕然とした自分。
これ以上は駄目だ、と拳を握り締めた。でも、想う事は許されるでしょう? と信じた事の無い神に問い掛ける。

―花の香りがする。そうだ、あの花畑。約束したっけ、また別の季節に来ようと。知らずカカシの唇の端が持ち上がった。

アカデミーでも、受付でも、イルカには毎日少しずつ誕生日のお祝いと称する品と、言葉が贈られた。
今年はたまたま誕生日が休日で、授業が無いから。そして舞の練習やらの雑事も殆どを休日に詰め込んだので、その日は休日出勤して受付のカウンターの後ろで書類と格闘する事もない。
受付で直に顔を合わせなくともそこに姿があるだけでいいと思う者達も多く、またイルカも教え子達や知り合いに挨拶出来るのが嬉しいと、平日は暇を作って裏方として座っていた。半分は居眠りだったけれど。
だから、何処から湧いて出てくるのかと思う程の人間と贈り物は、毎日山積みに為った。
きっと、これが最後だと知っているからだろう、里でのイルカの誕生日が。でも、その優しさが少し苦しい。

明日も練習して、そろそろ衣装の打ち合わせもしなきゃならないし。とイルカの溜め息は欠伸に変わる。

火影の呼び出しに、緊急事態かと慌てれば明日は一日暇をやると言われて。
困ったなあ、と独り言が出る。やる事は無い訳ではないが。いや掃除とか洗濯とか、やらなきゃならないけどのんびりしたいとも思う。うん、いいや、だらだらしようっと。
イルカは伸びをして、さてもう帰ろう、と職員室へ荷物を取りに歩いていると、カカシが職員室の前に立って変な本を読むのが見えた。
…またいかがわしい本を。あれ、新刊みたい。
このシリーズをイルカも少しは読んでみたが、これは男性向きだと最初の数ページしかめくれなかった。堂々と読めるのは返って尊敬出来るとさえ思える。
本から顔を上げたカカシは、目を細めてイルカに穏やかに笑う。胸がほっこりと温まる気がした。
「イルカ、先生。」
呼び捨てされたような一瞬にどきりとする。深い意味はないのだろうけれど。
「はい。」
小走りに駆け寄ってしまった。嬉しいと。
「明日、少し時間をください。忙しいとは思いますが、一時間でいいから。」
お願いします、と言う様子はこどものようで、イルカは何だか可笑しく為った。
「明日は一日神社に詰めてなきゃいけない予定、」
「そこを何とか。」
「カカシ先生、まだ、」
「ね、昼ご飯の時とか。」
「話を聞いてって。」
とイルカはカカシの顔の前で両手を叩き合わせた。
突然の猫騙しに、カカシは驚いて固まる。いや貴方、上忍でしょう、と笑ってイルカはもう一度繰り返した。
明日は一日神社に詰める予定でいたのですが、今火影様から取り消されました。だから何もありません。
全く、何を急いでるんですか。イルカは腕を組んで軽く睨み、カカシを生徒のように扱う。
すみません、とうなだれたカカシに慌てて顔を覗き込み、それでお話の続きを、と促せば。
「お弁当作って待ってて下さい。」
満面の笑みが覆面の下に広がったのが判る。
「何人分ですか。」
と聞くのはお花見の時の事があるから。軽く大人二十人分はあったのに、全て平らげてしまったのだ。
「俺の分だけでいいんですが。あ、疲れてますよね、じゃあ俺が買って来ます。」
気が利かなくて、と頭を下げるカカシに慌てて首を横に振る。
そうじゃなくて、食材を買って帰らなきゃならないから。大丈夫、一人分なら作れます。
あれ解ってない、とカカシは頭を掻いた。
「あの、花畑を見に行こうと誘いたいんですが。」
「こども達とですか。それとも…他に…。」
誰かとデートですか、と言いたい言葉は飲み込んで、イルカは黙った。
「イルカ先生と。」
眉を寄せた、やれやれといった表情でカカシは、イルカの鼻先に人差し指を押し付けた。
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