26

イルカが塵となって消えたあの恐怖が鮮明に蘇り、すうっとカカシの背中を撫で上げる。季節は夏だというのに指先が冷たい気がして、思わず両手を擦り合わせた。
もしもコハリの掛けた呪縛術がほどけ、怨霊が夜の身体も意識も乗っ取って表に出る事があれば。
もしもその時上掛けの封印術も破られ、更に夜の消滅と共に怨霊が消える最終手段が失敗したならば。
そいつは夜を器として妖怪になってしまうのだろう。そしてイルカのチャクラをも喰らうーいや吸い取るのかもしれないが、どちらにしても夜の身体の中にあればそれは格好の餌となる。もしかしたら夜よりも操りやすいと、イルカの身体に移る可能性も全くない訳ではない。
「冗談じゃない。」
そんな事はさせないと噛みしめた奥歯が、ぎりと嫌な音をたてた。傍目にはちょっと怖いカカシの本気が、こんな時に不謹慎だが夜の顔を綻ばせる。
扉の外の気配を読んで近付く足音を待っている間に、広げた巻物を巻き戻して後は任せたと三代目がカカシに投げた。何気なく受け取って夜からそちらに目を戻すと、もうすぐ駆け込む人物の怒りを想像したか三代目は動揺し煙草の葉を取り落としていた。
「おおおイルカに嫌われてしまうではないか、お前がどうにかせい。」
「えっ、そんな。」
カカシが狼狽える間に近付いた足音が扉の外で止まる。
「三代目!」
ノックもなく勢いよく開かれた扉は、そのまま限界まで開いて蝶番がみしりと音をたてた。
肩で息をしながら仁王立ちでイルカは里長の前に立つ。上気した薄紅の頬は怒りだけではないようにカカシは思い、その理由をイルカの全身を眺めて探った。視線に気付きちらとカカシを見ては目を逸らすイルカに、はてと首を傾げる。まるで羞恥の表情のようで。
「ほう、そんなに慌ててどうした。」
知らん顔で笑い掛ける笑顔に、喰えない爺だとカカシは僅かに肩を竦めて静観を決めた。
「実習は明日までではなかったかの。」
「副隊長は検査で異常なしと診断され、先程隊に戻りました。」
報告が先だと気付き、イルカは姿勢を正して礼をした。ご苦労と頷き話をさせまいと三代目は書類の山を足元から机に積み上げたが、イルカは書類の一番上に開いた手を置いて話を始めた。
「火影様、俺に無断で何をやっているのでしょうか。はたけ上忍も、これでは貴方の忙しさが増すばかりです。」
順番に睨むと、ああと溜め息を深く落としてイルカは項垂れた。
「夜、俺もそこまで馬鹿じゃない。三代目の封印の真相もカカシ先生の術者交替の件も薄々感づいていたんだ。だけど話をする前に俺が実習に行かなきゃならなくなって、帰ってからきちんと話をしようと思っていたんだけどな。」
机の上に伏せて寝た振りをしようにも抱き上げられて目を覗かれ。
カカシに向けて、夜はにゃあと小さく掠れた声で助けを求めた。おいでと小さく両手を広げると、するりとイルカの胸から抜け出しカカシの肩に乗る。
「もう封印の術者は交替してしまいました。偶然ですけど、オレはこれで良かったと思っていますよ。」
宥めるように言うカカシに、イルカは真っ赤になって狼狽えた。良くない、と口の形がへの字に変わる。
「どうして?」
「チャクラが馴染みすぎて困るんです。」
「あら、あたしは変わらないけど。」
カカシの陰の精神エネルギーがイルカの精神エネルギーに同化する、と夜は言ったが具体的にどう作用するかは本人ではないので解らない。動物の勘は理論に因らないのだから。
馴染むとはどういう事か、聞いてもイルカは言いたがらなかった。ただ馴染むんです、と耳まで赤くしついには手で顔を覆ってしまった。
あ、と気付いたのはカカシだ。多分火影の前では言いづらいだろうと、帰宅して話し合いますとイルカを部屋から連れ出した。
歩き出さないイルカの手を無理矢理握ると、カカシは自分の部屋へと向かった。躊躇いながらもイルカは歩調を合わせて付いてくる。握る手からふわふわと伝わる何かが、くすぐったいような温かいような今まで知らなかった変な感じだ。
入ってと背を押され、イルカはのそのそと上がり込んだ。数日振りのカカシの部屋は、当然だが何も変わっていなかった。カカシが誰も中へ入れずに食事を玄関で受け取るだけだったと、アスマ達から聞いていたのだ。
「その節は大変失礼しました。」
イルカは深く腰を折り、最後まで世話ができなかった事を謝罪する。
「こちらこそ、大変お世話になりました。」
カカシも慇懃に腰を折ると返礼して笑った。
所在なげに立ち竦むイルカに構わず、カカシは台所でやかんにお湯を沸かし湯飲みを揃え出した。
「お疲れ様。ちょっと休みましょう。」
イルカが置いていった茶を淹れて、カカシはソファに座る。
「一人だと何もしたくなくてね、お茶の葉が湿気てるかも。」
自分のアパートには帰してもらえないのだと解り、諦めてイルカは床に腰を下ろした。
「馴染むってどういう事?」
来た、とイルカは身を縮めた。どうしても言わなければならないらしい。
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