5

小声で約束する必要はなかったけれど、誰にもカカシがうちに来ると知られたくなかった。
隠し通せる自信がない馬鹿正直な自分を自覚しているから、根掘り葉掘り尋ねられたら弾みで夜の存在を話してしまうだろう。
それより先にカカシとの関係を詮索されるとは微塵も思わず、夜に頭を占領されているイルカは定時きっかりお先にと、誰とも目を合わせず速足に建物から遠ざかった。漸くアパートの見える路地に辿り着き、小さな空き地に隠れるように入り込む。
俯き溜めていた息を吐いた瞬間に前触れもなくぽんと肩を叩かれ、イルカは文字通り飛び上がって振り向きながら腰を屈めた。忍びの習慣とは恐ろしい。
「あの、それをしまってくれませんか。」
手首のひと振りで袖口から覗いた千本が、相手の喉元を狙っていた。広げた両手を万歳の形に肩口に上げ、カカシが困ったように眉を下げて笑う。
「あ、」
膝を着いて力を抜いたイルカが真っ赤になって、片手で口を覆う表情からはやってしまったと後悔が見えた。
自分がイルカの姿を見付けて喜び浮かれたからだ。驚かせてすみません、とカカシは地べたに座り込んだイルカに手を差し伸べた。指先に触れたその手を握ってぐいと引くと、勢いよく立ち上がったイルカと至近距離で視線が絡まった。
ますます顔を赤くし、イルカは両手で顔を隠す。
「ご無礼をしました…。」
穴があったら入りたい、と聞こえた。
「いや、先に声を掛けなかったオレが悪いので。」
カカシは油断していた。心のどこかに、イルカは外で戦えない中忍という認識があったからだ。
戦えない、ではなく戦わない、だけだ。ゆうべ少しだけ知ったイルカを、パートナーとして十分な実力を持つとカカシ自身が認めた筈なのに。
ばいばーいまたね、と響いた声に二人は思わず側の家の屋根に跳んだ。
「…生徒でした。」
夏の夕方はなかなか暗くならないから、子供は夢中になって親に呼ばれるまで外で遊ぶ事が多い。
「隠れなくてもよかったのに。」
「そう、ね。」
難しい顔をしたイルカに、申し訳ないとカカシは謝罪を繰り返す。
「ゆうべの件が尾を引いて敏感になっているよね、ごめんなさい。」
勿論熊ではなく、夜の存在を明かした事だ。いいえ信頼してますから、と全開の笑顔が返されつられて笑うカカシの笑顔は誰も見た事がない優しいものだった。
生徒には言えませんがとそのまま屋根を軽快に数歩跳んで、イルカのアパートに着いた。どうぞと柔らかな声に安心し、玄関のドアを閉めたカカシは即座に素顔を晒した。
先に入ったイルカがこちらですと振り返り、カカシの素顔に目を止めひぃと小さく奇声を発した。
「カカシ先生顔、顔が…。」
「いや、だって、オレだって秘密を明かさなきゃ不公平ですし。」
ビンゴブックに載ってしまったから、かえって内緒事の際には髪や目の色を変え素顔を晒した方が気付かれずにすむと思って。
「内緒事?」
「こんな風に密会する時に。」
「密会って、素性を明かさずに浮気する気ですか。」
むっとしたイルカに冗談です、と慌てる。
「浮気も何も、気力体力ともに全部部下達に持って行かれてますから、一人の人とお付き合いする事すら無理ですって。」
ああ、とイルカも頷いた。アカデミーの職員でも受付で会う忍びでも、イルカは選り取りみどりの恵まれた環境にいると羨ましがられる。だが女性と交際するとなると、それに割く時間も気力も仕事とは別に取っておかなければならないから腰が引ける。
「俺も、生徒達が生活の全てですね。」
はは、と乾いた笑い。九尾の襲撃後の復興の時代はともに思春期だったがどちらも自分の事は後回しにする性格で、里の為に働き続けて気付けば二十代も半ばだ。恋愛なんかしたっけ、と首を傾げる程甘い記憶はまるでない。
だから目の前のお互いが気になる理由が解らないのは、仕方ない。
「すみません、うちの中で立ち話になっちゃって。」
カカシは出された座布団に座り、ぐるりと部屋を見回した。
「夜は巻物の中ですか?」
「昨日夜の力が強すぎるという話をしたと思いますが、俺が巻物に戻しても自分で出る事ができるんですよ。」
呼応するようににゃあ、と聞こえた声は背の高い本棚と天井の隙間から顔を出した夜のものだった。よくその狭い所に潜り込めるな、と犬しか知らないカカシはまじまじと夜を見詰めた。
「はたけカカシ、いくらあたしが綺麗だからって失礼ね。」
するりと音もなく畳に降りた夜は、カカシに茶の支度をするイルカの脚に絡み付いてから爪を出してその身体に登っていった。
「痛いって。肩まで跳べるのに、なんでわざとよじ登るんだよ。」
ちらとこちらを見た夜の目が、カカシを敵と見なしている事だけははっきりと確認できた。
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