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夢の中の誰かは、優しくイルカの髪を梳いていた。
思わず頭に手をやると、梳く事もできない程に短い髪が指に触れた。
「俺って、男のくせに伸ばしてたのかな。」
ベッド脇の鏡の中の自分は平凡な顔で、突出した能力もない普通の男だ。かつての恋人は俺の何処を好いてくれたのだろう―もう知るよしもないが。
でも此処で、この町で、また新たな恋ができたらいいな。ゆっくりお互いを知って、今度はちゃんと愛する人と家庭を作りたい。
「まあその前に、仕事を認めてもらえないと。」
にっと歯を見せ強張る頬をほぐして、意気揚々とイルカは職場に向かった。今日は生徒が下校した後の、職員会議での顔合わせだ。
「始めまして、荒波ナガレです。」
偽名は好きにつけていいと言われて、どうせ記憶を失くすなら今の心境でいいとその場で思い付いた名前に決めた。
記憶のない今のイルカは迷いもなく名前を告げられる。父親はモクズとつけようとして母親に泣かれた、と皆の笑いを誘った。
学年にひとクラスしかない、和気あいあいとした学校はイルカには楽しそうに思われた。職員ものんびりとしていて、早く馴染めそうだと初対面の緊張もすぐにほどけた。
「荒波先生、全教科持てると聞きましたけど。」
同い年だと言う町田桔梗が、イルカの担当学年の時間割を差し出した。
「あー、音楽はあまり…。」
週に一時間、低学年とはいえ楽器は苦手だと正直に言うと、暫し教師全員で相談し町田が見てくれる事になった。
最高学年の受け持ちの桔梗は、その時間はちょうど校長の特別研修が入っている為に空いているのだと言う。
「この町は職人の集まりなんですよ。だから将来の職業探しの為に、一つずつ実地研修に回るんです。」
校長が胸を張ってイルカに説明する。
イルカの教え子は、好きだから家業の刀鍛冶を継ぐと言っていた。何度か会った弟妹はこの学校に通っていたから、この話を目を輝かせてイルカに話していた。
だが今のイルカには、初めて聞く変わった風習だ。
「いいですね、私も回りたいです。」
興味津々のイルカに、校長が頷いた。
「では荒波先生には、引率の手伝いをしていただきましょうか。今年はなかなか暴れん坊が揃っているので、今まで手空きの用務員さんや事務員さんにお願いしていたんですよ。」
体格の良いイルカが睨みを効かせれば生徒も従うだろう、と校長は読んだのだ。
イルカの小さな生徒達は純粋にイルカを慕った。
校長の言う最高学年の問題児達は、悪戯に身体を張って全力で受け止めるイルカには素直だった。慣れるに従い、兄のようなイルカに内緒の相談事もしてくる。

赴任して十日たった。
イルカは初日から日記をつけていた。町の様子や学校内の些細な事まで、まるで報告書のように。
一枚一枚、最後には名前と日付を入れるのは、木ノ葉の里で任務の受付と報告を担っていた頃の習慣。何故か解らないが、イルカはそれが当然だと思っていた。
この日も日記をつけていると、二階のイルカの部屋の窓を叩く音がした。
風もないのにと窓を開けて外を覗くと、目の前のベランダの柵に軽々と飛び乗った人影が見えた。
今は忍びではないイルカは、未知の恐怖に後ずさる。
影は音もなく部屋の中に着地した。
火の国で見た事のある木ノ葉の忍びだ、と認識はしたがイルカは、いや荒波ナガレの記憶では忍びに直接接した事はなく、顔を伏せてただ怯えていた。
「日記を受け取りに来た。」
仁王立ちで見下ろす男の穏やかな声に、イルカは俯いたまま詰めていた息を吐いた。
日記を渡す、それは命令として記憶にあった。理由は解らないが、渡さなければならない。
慌てて今日の日記文の最後に名前を記すと、それを見ていた忍びの男はぼそりと呟いた。
「荒波ナガレ、ね。何処まで流れて行くの。」
え、とイルカは男の顔を見上げた。
左目を頭に巻いた布で斜めに隠し、鼻から下は服の首元から伸びた布で覆われ顔付きの判別ができない。
唯一あらわな右目がイルカを射抜き、身体が全く動かせなかった。言いようのない恐怖に震える。
「髪、切ったんだ。」
細められた目が、優しくなった。
「え、俺を、知ってる?」
「いや何でもない。」
また来るから。
そう聞こえた瞬間には、男は消えていた。
まるで夢のような数分だった。荒波ナガレとして初めて近距離で見た忍びは、しなやかで動きに無駄がなかった。強いのだろうかと巡らせた想像の戦闘場面は、テレビで見た突拍子もないものだった。ないないと笑ったイルカは、自分も忍びだとは夢にも思わない。
「あいつ、靴のままだったんだ。」
畳の目に詰まった土を取り除かなければ、布団が敷けないではないか。次は窓の外で渡すかと、イルカは雑巾を手に持った。
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