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小さな町では、早くも新任の教師が話題の中心になっていた。
じろじろと遠慮のない視線に臆する事もなく、目が合えばイルカは笑って挨拶をする。
「ナガレちゃん、今夜のご飯は決めたのかい。」
八百屋のおかみさんがお薦めの野菜を指さす。
隣の肉屋が生姜焼きだろ、と既に豚肉を包み始めていた。
生徒の親達の八割は、町で何らかの商店を営んでいる。爽やかで性格のいい独身男は、どうやら生徒を通じて信頼に値すると認められたようだ。
校長が職人の町だと言う通り、機械で大量生産できる物も手作りしていた。値は張るがその分品質と耐久性は大量生産の比ではない、それが町の自慢で自信だ。
イルカが薦められるままに買った、革の鞄は背中に気持ちよく沿う。靴は履く程馴染んで痛くもならない。
だが生活が落ち着いて外食にも飽き、自炊を始めるために包丁を探したが、何故か刃物店だけがなかった。
少し離れた他所からの移住の多い新興住宅地には百貨店があり、そこには勿論包丁や鋏が置いてあるが、イルカが探す限り通称職人通りには店自体がなかったのだ。
何気なく所在を聞いたイルカは絶句した。
夜間に強盗が入り、一家五人惨殺。しかも子ども二人はイルカのいる学校の生徒だった。
「お兄ちゃんが店を継ぐために、何か難しい勉強をして帰ってきて。これから店を大きくするんだって、父ちゃんが大喜びしてた矢先さ。」
煙草屋の店番のおばばが、雨戸の閉じられた数件先を指す。
昔ながらのその店には、武士や忍びが他所の国からわざわざ注文に来ていたのだという。
また刀鍛冶ではあるが、商店街に店を出す限りは皆の役に立ちたいと、その職人は包丁ひとつも使い手の癖に合わせて作ってくれていたのだ。
「何故、その一家が…。」
「運が悪かったのかねえ。その日はどっかの偉い侍が、何本もの刀の代金を払ってたらしいよ。」
たまたまその大金を見た奴が押し込んだんじゃないかって、と声を潜めたおばばが子ども達が可哀想でと涙を浮かべた。
会えなかった子ども達。
イルカはざわつく胸を押さえた。
野菜を刻む、百貨店で買ったステンレスの包丁の切れ味は悪くない。けれどイルカは、もっと切れる刃物を知っているような気がした。

その忍びはまた一週間後に現れた。
こつんと小石を投げられて窓を開け、イルカは外に向かって靴は脱いでくださいと小さくお願いをした。
ベランダに降りた男はいいの、と部屋を指さす。
どうぞと手のひらで促したイルカは、二度目となれば怖くはなかった。纏めておいた一週間分の日記をちゃぶ台に乗せると、それを手に取り日付を確認する忍びをさりげなく観察する余裕もある。
あ…髪、白かったんだ。
前回は気が回らなかった、男の外見。体格は格闘を齧った自分とほぼ同じ位だが、身体に沿う服の腕などは細い。筋肉が付きすぎる自分より恵まれているのだろうと、手先までも見詰めてしまう。
「うん一週間分ね、持って行くから。」
何処へ、何のために、とイルカの脳裏に浮かんだ疑問はすぐさま消えた。イルカの忍びの記憶が呼び覚まされないように、と二重に記憶を操作されていたから、イルカが二度と疑問を持つ事はない。
「宜しければ、お名前を教えていただけませんか。」
男の右目がほんの少し、見開かれた。
「お前に関係ないだろう。」
「そう…ですね。」
イルカがいつもの癖で掻く鼻の上には、傷はなかった。顔の造作は変わらないのに短髪で目付きも柔らかく、まるで別人だと目を背けてしまった。
はたけカカシという男の存在は今の荒波ナガレに必要はなく、名乗ったところで未来は変わらないとカカシは知っている。
何故ならイルカはこの任務の覆らない結末を、記憶を消される直前に告げられ、そしてカカシも任務を受けた時に関わるなと釘を刺されたから。
「新しい草が見付かった時点でお役御免だが、お前は里へは戻れない。」
ひでえな、先に言えば断ったからか。笑えるよ。

「私がお役に立てれば光栄です。」
この忍びは町に犯罪が起こらないように見回っている警察のようなものか、と見当付けてイルカが頭を下げた。
イルカの笑顔にいたたまれなくなったカカシは、小さく息を吐きまた来ると逃げ出した。

イルカとの安寧な毎日に真綿で首を締める閉塞感が、言うつもりのなかった言葉を漏らした。
慌てて嘘だと口を開く前に、イルカは頷いて踵を返して去ってしまった。
追えなかった。ほっとしたのも確かだが、それ以上にイルカのいない日々に、カカシの心は闇をさ迷い続けた。
だから突然消えたイルカを探して探り当てて、無理矢理他の奴から奪った任務だったのに。
やはり、うみのイルカはいなかった。
もう二度とイルカに会えないのだ、とカカシはひっそり泣いた。
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