別れようと言われた。理由を聞いても虚しいだけだから、黙って頷いた。

その日に一昨日から返事を急かされていた里外任務を受理した。
その日に部屋を解約し簡易宿泊所に移った。
その日に髪を切った。
イルカの行動は早かった。カカシの痕跡を残さず何もなかったように彼はそこにいた。
だが心は囚われ繋がれたまま、長く太いもやい綱の先は港の杭からほどけて水平線の先へ流されて行った。

「イルカ、やっぱり行くんだ。」
「ああ悪いな、いきなりで。」
「いや仕方ないさ、イルカをご指名だし。でも…よく決意したな。」
職員室で引き継ぎをしながら交わす会話にカカシの名は出てこなかったが、噂は届いている筈だ。この任務を受ける為に別れたと思われているだろう。ひとことも触れない優しさが、心を抉る。
イルカは書類を選り分けながら、口を笑いの形に作った。
まあいいか、任務で別れるなんてよくある事だもんな。ただ、帰ってきて元鞘なんて俺達にはあり得ないけどな。
「俺達、だって。もう関わりないのに。」
口に出た言葉は聞こえなかったのか何だって、と返された。
それには答えず冷えた茶を啜る。安物の茶葉は苦いだけで、しかし疲弊し泥沼の中で泳ぐように朦朧としている自分をいっときでも覚醒させるにはちょうど良く、残りを一気に飲み干して長く息を吐く。
「俺の私物が残ってたら、全部捨ててくれ。」
この湯飲みはあの人がくれた物。自分では捨てられないから置いていく。
狡いよな、まだ俺の中にあんたは影を残してる。
するりと入り込んで、イルカの全てを絡め取った男。
―あんたはオレ無しじゃいられないよ。
その通りだ、忘れられない。けれど忘れられなくても生きるしかない。
一人で。
死ぬまで、一人で。
「誰か、いい人できるかな。」
夜道のちかちかする街灯の下で立ち止まり、光を求め羽ばたく蛾を見上げてイルカは頬を濡らした。

避けているわけではないがカカシに会わぬまま、慌ただしくイルカは里を出た。
木ノ葉の里の物は一切持たない。下着までも火の国製で一般人を装う。
「里の記憶は全て封印する。お前は毎日日記をつけ、それを使いの者に渡す事だけを覚えている。」
草として侵入する。
本当は代々その場所に、家族が根付く事が前提の密偵だ。
だがひと月前にある国で、夫婦と子ども三人の草の家族が全員強盗に惨殺された。
親戚と偽っていた火の国在住の連絡係に一報が入り、巡って木ノ葉の里に知らされた。
草と判明しないように回りくどい手順を取っていたが、葬儀が終わった今でも木ノ葉の草とは知られていないようだ。
急ぎ草の補充をしなければならないが、条件に見合う家族の選定には時間が掛かる。そしてその前に、惨殺された家族の調査をしなければならない。
寝込みを襲われたにしても、忍びが抵抗の跡もなく易々と殺されるなど単なる強盗ではない。
その若夫婦の長男は、家業の刀鍛冶を継ぐ為の勉強と称し木ノ葉の里でアカデミーに通う、イルカの教え子だった。草を誇りとし、意気揚々と卒業して親元に帰った直後に起こった事件だったのだ。
「下の弟と妹は忍びの才はなく、町の学校に通っていた。今はちょうど教師に欠員が出て、上手く入れる手筈になっている。」
潜入するにも少しでも様子を知る者がいいと、イルカに白羽の矢が当たったのだ。
何回か家庭訪問を兼ねてイルカは里帰りの教え子と共に家族に会っていたから、何処からか取っ掛かりはあるのではないか、と無理に捻り出した理由。だが真実は違う。
イルカが天涯孤独だからだ。
その家族同様に殺されても良い、ただの捨て駒だ。
強盗が一家を草と知って殺した他里の忍びならば、物騒な事件の後に越してくるイルカに目を付ける可能性が大きい。
身の危険を知りつつも、少しでも情報が取れれば九尾の事件以来育ててもらった里への恩返しになる。そう思わなければイルカは逃げ出しただろう。
「勿論チャクラは練る事ができないが、会得した体術は失われない。一般人にしては格闘は強いだろう。」
それだけで身を守れと言うのだ。
火影の知らぬ底辺で、失態を隠す為に画策されたとはいえ、イルカに否と言えない上部からの命令。
教え子の一家は存在を抹殺され、あの子はアカデミーに在籍していなかった事になる。イルカは教え子の卒業時の作文を、こっそり新しい仕事の書類の束に紛れ込ませた。

新しい記憶は、失恋で火の国から心機一転やり直したいと越してきた教師。
失恋という言葉はイルカの胸に燻る何かを訴えていたが、何も思い出せない。
学校から紹介されたひと間のアパートで、イルカは居眠りの合間に夢をみた。
温かな人。そして別れ。
朧な夢に、本当に失恋したのだと笑いが零れた。
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