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十一
何ヶ月も前に訪れたきりのカカシのアパート。
イルカは以前と同じ手順で入ろうと壁の前に立った。突然まばたきの間に玄関の中にいた事に驚いたが、カカシが行けば解ると悪戯な目をしたのはこの事だったのかと、上忍の力量を知って肩を落とした。
「楽だからいいけどさ。」
気を取り直して見ると、床には積もった埃を踏んだカカシの靴跡が、風呂場やキッチンへ歩いた軌跡を描いていた。流石にカカシは裸足で歩く気はなかったようで、イルカも倣ってそのまま進んだ。
「酷すぎないか?」
此処にはいないカカシに問う。
ベッドは、と覗くと掛け布団とシーツが埃の犠牲になって、カカシはそれらを取り払いむき出しのマットレスに寝ていたようだ。枕にはおざなりにタオルを巻き付けてあったが、何気なく叩くと埃が舞った。
目的の冷蔵庫にはぎっちりと箱や袋が詰まっていたが、開けた途端に黴臭くて閉めてしまった。電源を落としてそのまま出掛け、入れ直した時にも掃除をしていない、とイルカはみた。
「俺もやるしなぁ。あの人忙しいからできない、訳ねえじゃん、今暇だろうが!」
ああもぅ、無精者め。
イルカは食卓に中身をぶちまけた。冷蔵庫の中も拭いて、黴臭さが大分取れたところで選別に取り掛かる。異臭を放ち始めた生ものが少なかったのが幸いだ。
いるいらない、と先に自分の欲しい物を分けたら冷蔵庫の棚一段しか残らなかった。だったら此処で一緒に食べようか。欲しい物が多すぎて、持って帰っても一人じゃ食べきれない。
イルカは気になってしまった部屋の掃除を始めた。明日も仕事だから、裸足で歩くために床を拭くだけでも、と始めたらシャワーではなく湯船に浸からせたいからせめて風呂場の浴槽を、と続きやはり良い睡眠のためにベッドだけは寝心地よく、とどうにか探し当てたシーツを敷いてひと息ついた。
そのまま腰掛けたら条件反射で横になってしまい、イルカは坑いが無駄だと知って少しだけ、と目を閉じた。いつもうたた寝ですっきりするから、カカシが帰るまでには目が覚めるだろう。
だがそんな時に限って目覚めない、よくある話だ。

カカシは外から見えた明かりに疑問を持った。日付の変わった夜中にイルカがいる筈がない。消し忘れて帰ったのか。
一応用心しながら玄関からの短い廊下を進み、綺麗になった床やキッチンには驚いたが、ベッドに眠るイルカにはもっと驚いてすっとんきょうな声が出た。
カカシの声に反応したイルカは寝返りを打ったが眠り続けている。
「いやいや何これ。」
カカシは狼狽えた。起こして帰さないとイルカは困るだろうが、午前二時を過ぎている。一度起こすと眠れなくなるかもしれない。
カカシはイルカの寝顔を覗き込んで、痛いだろうと寝返りでずれた額宛てを外した。顔に掛かる後れ毛を退けると手首を掴まれた。掃除でかさついた指先は、染みるように体温を伝えてきた。
一瞬で力が抜けするりと指が落ち、イルカはまたすうすうと眠りこける。
カカシの胸は酸素が足りず重苦しい。静寂の中全身が心臓のように、早い鼓動が煩く耳につく。
微かに震える手は勝手にイルカの頬を撫で、親指が唇をなぞって僅かに開いた中へ侵入した。
オレは何をする気だ。
理性が止めた行動の元は、塞き止められ膨れ上がった感情だ。律する事は慣れている筈なのに、長い葛藤の果てにカカシを蝕む情欲が勝ってしまった。
ベッドに乗り上げ、イルカの両脇に手を付いて顔を近付ける。カカシの気配にイルカが眠ったまま僅かに動いたが、最早カカシの気配に慣れきって起きはしない。
カカシの鼻がイルカの鼻を掠めて唇同士が触れ合った。男でも柔らかいもんなんだ、と驚く。
当たり前だろうが、男に興味はなかったから初めての経験だ。好ましいを通り越して好きで好きでしかたない、同じ男のイルカ。
どこがいいと聞かれたら魂と答えるだろう程に、惹かれている。知らない事の方が多いが、一つ一つ知る度にそれを好きになる。
あばたもえくぼ、惚れた欲目、どうとでも言うがいい。イルカの全てが許容範囲だ。
「何でかな、何で男を好きになっちゃったんだろうな。」
どちらかが女だったらこんなに悩まなくて済んだのに。
カカシはまた唇を寄せ上唇を、次いで下唇を軽く食む。だがそこまでだ。
理性が戻り、イルカに嫌われたくないと思ったのだ。
シャワーで滝行の如く全開で頭から粒に打たれれば平常心が戻り、取り敢えず冬季任務用のコートをイルカに掛けて、カカシは脇の床で蓑虫のように蹲った。

イルカが飛び起きたのは早朝で、泥酔したあの朝のようにカカシに頭を下げて謝った。
「あの、冷蔵庫の中に朝御飯になる物がないからその、うちで。」
お詫びを、と誘うと朝日の中のカカシの笑顔が眩しく、イルカは目を細めた。
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