「昨夜の店を、覚えていますか。」
唐突にカカシが尋ねた。
「はい、ご馳走になりました。とても安らぐ落ち着いた店でした。」
思い出せば良い客ばかりだったと思う。カカシの上忍仲間ばかりだろう酔っていても隙のない彼らに最初は緊張したが、それが身に着いてしまっているだけと判るとイルカは肩の力を抜いて楽しんだのだ。
「サギの件とは別の話をするね。彼らはね、女将さんも含めて全員が現役暗部と暗部上がりの諜報員なんだよ。だから誰一人はっきりとは顔が思い出せないでしょ。」
ふふっと笑ったカカシが何を言っているのか、イルカには理解できなかった。いや言葉の意味は理解できたが、それをすんなり受け止められなかったのだ。
「どう、」
どうしてと聞き返そうにも動揺が酷い。言葉が出ない。
「暗部は生まれた時からナルトを守り続けていたんですよ。貴方はナルトの担任ではなくなった、手を離れたのにこのままナルトの側にいていいのかって声が上がって、見極めたいと……。先生そんな顔しないで。ごめんなさい、試させてもらった事は謝ります。」
感情が追い付かないでいれば抱き寄せられ、ぽんぽんと背中を叩かれた。なんでこんな事、と更にイルカの動揺は激しくなった。
「ちょっとこのままで。聞かれてたらまずいから。」
耳元の真剣な声にすっと動揺は治まる。イルカははい、と吐息だけで返事をした。
「暗部の話はわざと聞こえるように言いました。申し訳ないけれど全部事実です。でも貴方は信頼されたので心配しないで。それでこれからオレと仲違いをして、疎遠になるという演技をして下さい。十日ほどで結果が出ます。」
これも任務か、と悟るとイルカは無言でカカシの胸をどんと押した。歯を食い縛れば顔が赤くなり、きっとカカシを睨んだ目には薄く涙が浮かんでいる。
左の袖口に隠してある、千本の中でも一番細いもので小指の爪の生え際を突き刺して痛みを作ったのだ。なるべく血が出ないように、皮膚と爪の間に水平にゆっくり食い込ませていく。痛い、とにかく痛い。
爪を剥ぐ拷問に絶えきれる奴はすげえなと思いながら、イルカは小さめの声で叫んだ。
「何を試したんです。わ、私が中忍だから、いやナルトの担任だったから、どうやって手懐けたのか知りたいんですか!」
拳で涙を拭きながら、皆どういう方法で狐を飼ってるんだって笑いながら聞いてきやがるとつい愚痴が漏れ出た。
カカシはイルカの演技に驚きながら、演技とは思えない部分にやはり苦労はしていたのだなと、ナルトを包むように可愛がる姿がその理由だったと気付いた。だがそれは今は置いておき、イルカとしたくもない喧嘩をする事に集中しなければならない。
「だからこれからナルトを利用するんじゃないかって、そういう見方をする奴もいるんです。貴方を知ってオレはそう思わないって言ったんですけどね、そいつに納得させる為には貴方の素の部分を見せないとならなかったんですよ。」
また涙を溢れさせるイルカを見て、カカシはそっと痛む胸を押さえた。
昨夜は偶然イルカから訪ねてきて、たまたま今回の任務の計画を立てる場にイルカを連れて行けた。
その前に宴会にでも見せかけた機会を作るか、イルカを疑う暗部を彼にへばり付かせなければならないかと相談していたところだったのだ。
騙している。任務だから殆どの情報を流してやれない。察してもらうしかない。
いい人だから傷付かないように後で何かしてあげたいと思う。だが何をどうしてやればいいのか、と言ったらナルトと引き離さない事が一番良いのだろうなぁ。
眉を下げたまま無言で自分を見るカカシは憐れんでいるのか。複雑な気持ちでイルカは部屋を飛び出した。職員室の荷物を引っ掴んで机の上を片付ける事なく、お先にとアパートまでひたすら走った。
暗部や上忍の任務に組み込まれた理由を思い出せば、怒りの方が遥かに大きかった。
ナルトが可哀想だ。ナルトが何をしたんだ。あいつはただ毎日を忍びになる為に生きているだけなのに。
里の人々があいつの腹のバケモノを忌み嫌うなら、俺が代わってやりたい。俺なら耐えられる。俺なら誹謗中傷にも無視にも耐えられる。
「……いや、無理か。俺は大人のくせしてあいつより遥かに心が弱い。」
担任として教室で最初にナルトの顔を見ただけで、腹の奥から熱くどす黒い思いが湧き上がってきた事はよく覚えている。違うとは知ってはいるのに、ナルトが両親を殺したのだと頭の中がいっぱいになってしまった。
三代目が隣で汗を吹き出し硬直する俺の背中を叩き、生徒達には先生は真面目だから緊張していると笑い話にしてくれた。お陰で俺は間違いを犯さずにすんだのだ。
あ、と思い出したのはカカシは結局白浜サギ上忍の行方不明についてイルカをどう使うのかという説明を受けていない事だ。火影と上忍と暗部が関わっているなら従うしかないのだろう、けれど。
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