ああ良く寝たなぁという意識と共に、イルカは目を開けてベッドに横になりながら窓の外を何気なく見詰めた。
昨日はうっかりカーテンを閉め忘れて眠ってしまったらしい。ここは二階の為に窓の外には空と何本かの木のてっぺんが見える、いつもと同じ朝の筈だった。──のだが、今日はそれらが見えない。
見えるのは水だ。透明度が高く、窓ガラスに向けて緩やかに波が寄せて返すところまでほっきりと見える。まるでアパートが水の中に沈んだかのようだった。
「俺は、……何処に……いるんだ。」
起きがけの掠れた呟き声が自分の耳に届くと、それもまるで夢の中のように遠くから反響して聞こえた。
「懐かしい。」
どうしてそんな言葉が出てきたのか、イルカはまるで気付かない。ただ瞬きもせず透明な水を見詰めていた。
上から陽が差しているのか、光がきらきらと酸素の玉に跳ね返る。その酸素の玉はイルカに見えない窓の下の方から上昇しているらしい。
生き物がいるのか、ならそれは魚かそれとも。
窓に近寄るため起き上がろうとして、イルカはあまりの怠さにベッドに沈み込んだ。主に腰から下が、訳のわからない違和感と僅か痺れているような感じだ。今度はゆっくり時間をかけて起き上がり、ベッドの端に座って畳に足を下ろした。
昨日はそんなに走ったりしたかな。授業で手本を見せるために頑張ったけど、寝れば疲れはとれるし筋肉痛になるほど動いてない。
つらつらと考えているとあふ、と欠伸が出た。二度寝しようか、でも窓の外を──海を──見たい。
何故海だと思ったのだろう。ううん、確信をもって海だと言える。勘ではない、絶対に海なのだ。
では海が窓の外にある理由は。あれ違うかな、アパートが海の中にあるのか。俺の部屋だけって事はないよね。じゃあ住人の皆はどうしてるんだろう。
それから先に思考は進まなかった。なんだか頭の中も海水で一杯になったような変な感じで、何気なく見た手のひらの指の間に薄い皮膚の膜が。
水かきだ。
足は?
視線を落として見た畳を踏んでいる足の指はいつも見る短くて太いものではなく、細く倍にも伸びてその指の間にも水かきが見えた。それから小指の爪ほどの鱗が一つずつぽつりぽつり徐々に足から上へと生えてきている。
イルカは人間ではなくなっていく自分が、不思議と怖いとも気味が悪いとは思わなかった。
鱗が一つ二つ膝の上まで上がってきたところで、一糸纏わず寝ていたらしいとやっと気付いた。いつもはパジャマを着ているのに何故。
ベッドに腰かけたまま、追いきれないいくつもの謎を解明する作業を放棄した。それでも窓辺には近寄りたい。
イルカは知っているのだ。窓ガラスなんかすり抜けて、自分があの海へと泳ぎ出せる事を。
自由に、どこまででも、いつまででも、俺は泳いで行ける。
それからどうしようというのだろうか、その答えは多分見付からない。ただひとつの答えなんかないのだと、イルカはそれも知っている。
さあ行こうか。立てるだろうか、心もとないこの脚で。泳げるだろうか、この両手足の水かきと鱗だらけになるだろう身体で。
膝に力が入り、上体が重力に逆らって上へと伸び上がろうとした。
「……どこへ行くの。」
手首を捕まれ、強い力でベッドへと引き戻される。柔らかな布地と温かな太い腕に全身を包まれて、ほうと大きな息が出た。
「息を詰めて窓の外を睨んで、あんたは窓を破って外に飛び出しそうな勢いだった。」
艶のある声が耳に心地よい。イルカは目を瞑ってほんの少し口元を緩めた。
「笑うところじゃないでしょ。」
イルカを囲う腕に力が入り、頬に唇を押し当てられた。ああなんて温かく安らぐ人だろう。イルカは今度ははっきりと口を開けて笑った。
「海に、帰らなきゃと、思ったんです。」
え、と見開いたその目が動揺している。安心させる為に、イルカは首に腕を回してぴたりと身体を密着させた。
「何故でしょう、貴方を置いて行ける訳なんかないのに。」
もう両手に水かきはない。布団の中で確認の為にもそもそ動かした足も、ただの人間の足だ。
一年に一度梅雨の時期の間に、イルカには海に帰りたいという衝動がこみ上げる。いつからかは定かではないが、今日のように世界が丸ごと雨に包まれたような日に。
懐かしいあの場所へ帰りたい。
無性に飛び出したくなるその衝動を止める存在は、愛してやまないこの腕の持ち主だ。
駄目、オレを置いて行かないで。一人になったらオレは死ぬ。
聞こえない声が頭の中に響く。今日まで一度も海に帰りたいと口に出した事はなかったが、勘の良い恋人は何かに気付いて時期が近付くとイルカから離れなくなっていた。
抱き合ったまま、イルカは波に乗って帰ってこいと呼ぶ声に耳を塞ぐ。
俺は何処にも行かない。この人を置いて帰れば俺もきっと、あまりの寂しさに泡になって死んでしまうのだ。
俺が死ぬのは愛し愛されたまま、この人の腕の中で。
昨日はうっかりカーテンを閉め忘れて眠ってしまったらしい。ここは二階の為に窓の外には空と何本かの木のてっぺんが見える、いつもと同じ朝の筈だった。──のだが、今日はそれらが見えない。
見えるのは水だ。透明度が高く、窓ガラスに向けて緩やかに波が寄せて返すところまでほっきりと見える。まるでアパートが水の中に沈んだかのようだった。
「俺は、……何処に……いるんだ。」
起きがけの掠れた呟き声が自分の耳に届くと、それもまるで夢の中のように遠くから反響して聞こえた。
「懐かしい。」
どうしてそんな言葉が出てきたのか、イルカはまるで気付かない。ただ瞬きもせず透明な水を見詰めていた。
上から陽が差しているのか、光がきらきらと酸素の玉に跳ね返る。その酸素の玉はイルカに見えない窓の下の方から上昇しているらしい。
生き物がいるのか、ならそれは魚かそれとも。
窓に近寄るため起き上がろうとして、イルカはあまりの怠さにベッドに沈み込んだ。主に腰から下が、訳のわからない違和感と僅か痺れているような感じだ。今度はゆっくり時間をかけて起き上がり、ベッドの端に座って畳に足を下ろした。
昨日はそんなに走ったりしたかな。授業で手本を見せるために頑張ったけど、寝れば疲れはとれるし筋肉痛になるほど動いてない。
つらつらと考えているとあふ、と欠伸が出た。二度寝しようか、でも窓の外を──海を──見たい。
何故海だと思ったのだろう。ううん、確信をもって海だと言える。勘ではない、絶対に海なのだ。
では海が窓の外にある理由は。あれ違うかな、アパートが海の中にあるのか。俺の部屋だけって事はないよね。じゃあ住人の皆はどうしてるんだろう。
それから先に思考は進まなかった。なんだか頭の中も海水で一杯になったような変な感じで、何気なく見た手のひらの指の間に薄い皮膚の膜が。
水かきだ。
足は?
視線を落として見た畳を踏んでいる足の指はいつも見る短くて太いものではなく、細く倍にも伸びてその指の間にも水かきが見えた。それから小指の爪ほどの鱗が一つずつぽつりぽつり徐々に足から上へと生えてきている。
イルカは人間ではなくなっていく自分が、不思議と怖いとも気味が悪いとは思わなかった。
鱗が一つ二つ膝の上まで上がってきたところで、一糸纏わず寝ていたらしいとやっと気付いた。いつもはパジャマを着ているのに何故。
ベッドに腰かけたまま、追いきれないいくつもの謎を解明する作業を放棄した。それでも窓辺には近寄りたい。
イルカは知っているのだ。窓ガラスなんかすり抜けて、自分があの海へと泳ぎ出せる事を。
自由に、どこまででも、いつまででも、俺は泳いで行ける。
それからどうしようというのだろうか、その答えは多分見付からない。ただひとつの答えなんかないのだと、イルカはそれも知っている。
さあ行こうか。立てるだろうか、心もとないこの脚で。泳げるだろうか、この両手足の水かきと鱗だらけになるだろう身体で。
膝に力が入り、上体が重力に逆らって上へと伸び上がろうとした。
「……どこへ行くの。」
手首を捕まれ、強い力でベッドへと引き戻される。柔らかな布地と温かな太い腕に全身を包まれて、ほうと大きな息が出た。
「息を詰めて窓の外を睨んで、あんたは窓を破って外に飛び出しそうな勢いだった。」
艶のある声が耳に心地よい。イルカは目を瞑ってほんの少し口元を緩めた。
「笑うところじゃないでしょ。」
イルカを囲う腕に力が入り、頬に唇を押し当てられた。ああなんて温かく安らぐ人だろう。イルカは今度ははっきりと口を開けて笑った。
「海に、帰らなきゃと、思ったんです。」
え、と見開いたその目が動揺している。安心させる為に、イルカは首に腕を回してぴたりと身体を密着させた。
「何故でしょう、貴方を置いて行ける訳なんかないのに。」
もう両手に水かきはない。布団の中で確認の為にもそもそ動かした足も、ただの人間の足だ。
一年に一度梅雨の時期の間に、イルカには海に帰りたいという衝動がこみ上げる。いつからかは定かではないが、今日のように世界が丸ごと雨に包まれたような日に。
懐かしいあの場所へ帰りたい。
無性に飛び出したくなるその衝動を止める存在は、愛してやまないこの腕の持ち主だ。
駄目、オレを置いて行かないで。一人になったらオレは死ぬ。
聞こえない声が頭の中に響く。今日まで一度も海に帰りたいと口に出した事はなかったが、勘の良い恋人は何かに気付いて時期が近付くとイルカから離れなくなっていた。
抱き合ったまま、イルカは波に乗って帰ってこいと呼ぶ声に耳を塞ぐ。
俺は何処にも行かない。この人を置いて帰れば俺もきっと、あまりの寂しさに泡になって死んでしまうのだ。
俺が死ぬのは愛し愛されたまま、この人の腕の中で。
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