ピーッと鳴る電子音は元々好きではなかった。それに携帯電話が普及した今、固定電話など要らないだろうと言われる。
けれどもイルカは取り外す気がない。だってもしも。
彼はイルカの携帯電話の番号もメールアドレスも、知らないから。
知っているのは、家の電話番号だけだから。
「父さん、母さん。俺、遅くなったけど大学に入ったよ。頑張るからね。」
同級生達は五つ程も年下だが、皆優しかった。

仕事の付き合いから発展していった。
有名な総合商社に自社の製品を流通してもらえたら、小が三つは付きそうな会社も生き延びる事ができるだろう。
必死で食い付いた相手が、敏腕で雑誌にも載るようなカカシだった。
「いいでしょう、日本の製品は海外では諸手を上げて歓迎されますから。」
そうして会社とは名ばかりの、両親と三人で経営している工場は救われた。
「お礼? じゃあ貴方を下さい。」
見詰められたら坑えない。頷いたその晩に、イルカは男に抱かれた。
何の約束もなかったが、絆は深かった。だがそう思うのは自分だけだったらしい。
ある日カカシは日本から消えた。そういう関係になってちょうど一年。カカシの誕生日だった。
思えば最初の日も、プレゼントをありがとうと言って優しく抱いてくれた。俺はただ、求められていたから応えただけ。
あの人だったから。
考えながら電話を見ていた。留守番機能はまだ、雑音を拾いながらも機能している。けれどプッシュボタンが幾つか壊れ、こちらからは掛けられない。
十年になるか。親から貰った初月給で買ってあげたもの。
親子とはいえ、一人前に働いているなら払おう。高卒初任給の平均には遥か遠くても、認められたんだと嬉しくて。工場での作業を中断せずに済む、留守番電話を買ったのだ。
そしてカカシと出会ったのが二十歳。
カカシが消えたのが翌年。
そのまた翌年に、両親は乗っていたクルマに大型トラックが突っ込み即死した。
工場は当然閉鎖する事になった。イルカは両親から技術を習得している最中の修行の身で、一ミクロンの世界をまだ実現できていなかったのだ。
親戚がいるのかは知らず探すだけの精神的な余裕もなく、ただ借金がなかった事に安堵した。
さてどうしよう、生きる為に。
掛け持ちのアルバイトの傍ら高校の勉強のおさらいをし、イルカは二十四才で大学に入学した。国立大ならば安く済むという理由で、更に大学独自の返済不要の奨学金やらも有効活用した。
そうして近年まれに見る努力の天才と、卒業生代表の様子がニュースで流れた。
カカシはどこかで見てくれてないか。小指の先程の期待で、イルカは一週間も電話を見ていた。

「これも処分か。」
事故から六年、一人で稼働しない工場の上の自宅に住んでいた。が、高速道路の拡張で居られなくなった。
引っ越しは明日。行き先は海外。
だから電話はもう使えないし、勿論番号も返却だ。変圧器まで使って留守番電話の内容を聞こうとは思わない。
最後にもう一度、と再生ボタンを押す。ビーッ、と歪んだ音がした。
『はたけです。最終的な打ち合わせをしたいので、出向いていただけませんか。』
記録の日にちと時間が、合成の女声で告げられる。
まだよそよそしい時。
『イルカ君、決まったからお祝いしよう。』
カカシのお陰で取り扱いが決まったこの頃には、随分親しくなっていた。
『イルカ、会いたい。』
身体を繋げてそれに夢中になっていた頃だ。囁くようなこんな声は聞けば誰でも解るだろう、欲情していると。
両親が面倒だからと渉外はイルカの担当となり、留守番電話もイルカ以外が操作をしなかったから残せたのだ。
『イルカ、ごめん。』
それがカカシが消えた日の声。後ろに流れるのは、多分国際空港のアナウンス。
イルカはひっそりと涙を落とした。何故理由を言わずにカカシが消えたのか、と泣き濡れていた頃。
ぐいと涙を袖で拭い、イルカは顔を上げた。背後から走る足音が聞こえてきた。
「イルカ、行こうか。」
「はい。」
留守番電話の音声が流れ続ける。
『イルカ、迎えに来たよ。きっと待っててくれると信じてたから、二度とイルカを離さない。』

「籍が入れられる土地で、イルカが仕事のパートナーにもなるなんて嬉しい。」
「貴方はまだ全快とは言い切れないんですから、無理はしないで下さい。」
「まさか出張先で事故で意識不明が続いた挙げ句に、イルカの大学卒業のニュースで目を覚ますなんてね。」
「それからは学会で発表される程の回復だったんですよね。大使館から貴方が俺を探してるって連絡が来た時は、本当に腰を抜かしたんですから。」
「愛のなせるわざだもの。」
少し足を引きずるカカシに寄り添いながら、イルカは手ぶらで歩き出した。
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