夢を見ている、と夢の中でカカシは思った。内容はぼやけて解らないが、とても優しい夢だった。
優しい、という言葉は違うなと他に適正な表現はないかと探しながら久し振りの心地よさに小さく息を吐いた。勿論眠っているまま。
全身を包み込む暖かさが、手足の指先から心の奥までゆっくりと沁み込んでいく。まるで羽毛布団に包まれているようだ。
最後に自宅の布団に潜り込んでひと晩眠れたのはいつだったか、今年になってからは一度もないなあとがっくり項垂れた。それすらはっきり夢の中だと理解している事が面白い。……もし好みの女の子を希望したら目の前に現れるのだろうか。
「はたけさん。」
ああやはり叶うんだ、とカカシは微笑んだ。さてどんな子が来てくれたんだと声の方へ振り向くと。
目を開いてはいるが覚醒しきれず、カカシはまだ夢の中だと思っていた。
「あれ、えと、イルカちゃんだ。」
へらっと笑えばカカシのぼさぼさの前髪をかき上げて、じっと目を覗き込んでくる。なんか会社で見るのと違うなあ。うん、いつもより幼くて可愛い。
殆ど話した事がないから好きも嫌いもないけれど、夢に出てきたって事はオレはこの子が好みなんだな。
不思議と素直に納得した。夢の中ではない事にまだ気付いていない。
「まだ起きてませんね、マスター。」
屈んで覗き込んでいたカカシからマスターへと顔を向けて立ち上がるから、思わず手を伸ばして届いたイルカの腕を掴んだ。温かく柔らかい。
「ん、夢じゃ、ない?」
漸く現実に戻った。目を擦り違和感のある肩をくるりと回すと、背中のどこかでぱきりと音がした。
「ずっとカウンターで寝てたからね、寝違えてないかい。」
マスターは両耳の下から顎一帯ふさふさとした髭のお陰で、容貌どころか年齢も解りづらい。声でやっと三十代半ばくらいかと想像している。商売人らしく程よい距離感を保ちながら仲良くしてくれるので、ほぼ毎日入り浸っているのだ。
「はたけさん、腕を離して下さいませんか。」
躊躇いがちに促され、手のひらから失われる体温を惜しみながら手を下ろした。
「ああ……ごめん。」 
イルカが床から毛布を拾い上げた。女性客が冷暖房の温度が身体に合わない時に使う為の物だ。これを掛けてくれていたのか、膝掛け毛布一枚であんなに気持ち良かったなんて今日は疲れてるんだな。カカシは椅子の背宛に身体を預けて煤だらけの天井を見上げた。
「君達は知り合い?」
マスターがイルカに尋ねて返事を待たずにカカシを見る。はい、と声が重なった。
「あーいえ、正確には同じ会社のほぼ接点のない顔見知りです。」
その後瞬時にイルカに否定されて、カカシはちょっとがっかりした。そうだけど、と口に出した言葉の語尾には不満が表れていてマスターは密かに笑った。
「あのですね、うみのさん。」
年下とは知っているが、親しくないからつい敬語になってしまう。本人のいない所では仲間達に倣ってイルカちゃんと呼んでいるのを知ったら、どう思われるのだろう。
「思い立ったらお菓子のレシピ、という本の校閲をしてるって聞いたんだけど。」
「はい、そうです。」
「それ書いた人かなり有名人らしいけど、少しでも間違えたら大変なんでしょ? 広報課のうみのさん、実は何者?」
「いえ、調理師免許とパティシエの資格があるので任されただけです。前の会社で校閲をしてたので、此処でも急ぎだと何でもやらされるんですよね。」
あ、やらされるって言っちゃった。と慌てて両手で口を塞ぐ仕草も可愛い。イルカとは会社案内のパンフレットを貰う時に何回か話した覚えがあるだけだが、会社と私生活とでこんなに印象が違うのかとカカシは面白く思った。今は仕事という気負いがない為か、笑顔が柔らかい。
「はたけさんこそ。ちゃんとお休みを取ってますか?」
小さな出版社の営業に土日休みがあろう筈はない。けれどその分直行直帰などが許されているので、体調管理は各自そこそこできている。小さくても働きやすい、いい会社だ。
「うん、今日も一件だけで直帰できたから。」
とはいっても車で片道二時間はかかっている。自費で研究書を出版する元大学教授の山の上の自宅まで原稿を取りに行って来たのだ。
「明日も午前中一件、これは本屋にうちの出版物のチラシを届けて棚替えの手伝いをするだけだから。」
少し早いが夕飯を食べて帰ろうとカカシは夜の日替わり定食を注文した。ランチ同様セットになっている理由は、マスターがひと皿で楽をしたい為だ。じゃあ私も、とイルカも同じものを頼んだ。
「イルカちゃん、やっぱり料理できるんだ。この間の新作の試食、プロの味見にしか見えなかったもんね。」
イルカの正面で腕を組み、低い声でマスターが唸る。次からはもっと真剣に手伝わなければなるまい、とイルカはひきつった笑いを返した。
自分は関係ないからと、カカシは尻をずらしてイルカから僅かにでも離れようとした。が、小さな手がカカシの服のポケットを握る。逃げたらポケットが破れますよと無言の忠告だった。
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