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9 上弦 月齢八
今日も暇だった。カカシが居ないと云うだけでこんなにも自分の心は沈むのかと忙しさを求めたが、こんな日に限って受付もアカデミーも人手を、イルカを必要としない。
朝から暗かった空は、昼過ぎには雨を落とし始めた。
上忍師の監督無しで出来る任務もあろう筈も無く、三人の子ども達はガイの指示で体力作りに演習場に連れて行かれたが、本格的に降り出してこれでは何も出来ないと云う程向こうの景色も霞み出した。
もうすぐナルト達も帰って来るだろう。今日はうちに呼ぼうかな。ただ暇だからって手伝っている受付も、やっぱり暇を持て余しているしね。
とイルカの目の前に一人、上忍とおぼしき男が立った。
お疲れ様でしたと顔を上げると、イルカをジロジロ見ながらいやらしい笑いを浮かべている。
最近カカシといい仲なんだってなと投げ付けられた言葉にイルカは怯んだが、親しくはさせていただいてますがそんな関係ではありません、と否定しても男は尚も食い下がる。色気が出て来たよなあ、やっぱりあのカカシの手にかかっちゃあんたみたいなのでも変わるもんなんだなと小馬鹿にしたように言う。羞恥に顔を染め、否定し続けても男は退こうとしない。カカシが執着する程の名器なんだろう、俺の相手もしてくれと手を握って来るのに、恐怖を感じてすくんでしまう。迫る男にイルカは身を縮めて黙り込むしかなかった。
―カカシ先生助けて、と居ない人物の名を心で呼べば、男の後ろにのっそりと人間程大きな犬が歩み寄った。
その犬の事は男も知っているようで、顔を引き攣らせて畜生、卑怯なと呟くと報告書を叩き付けて出て行った。
入れ違いに入って来たずぶ濡れの三人の子どもらは、修羅場に気が付かなかったように話し掛けるので、イルカは安堵し彼等を家へと誘うのだった。

カカシの忍犬は男の後を追っていた。その男は雨の中を薄暗い路地に入って行く。昼間から開いている飲み屋街の方だ。犬はそろりと足を踏み出し、男の様子を窺いながら付いて行く。
ひと気は豪雨のせいでまるでない。男が飲み屋に近付く前に犬が飛び出して、音も気配も無く肩口に噛み付いた。がしかし、相手は上忍だ。犬の歯が肉に食い込む瞬間、その頭を掴み投げ落としていた。犬は悲鳴こそ上げなかったが、地面に勢いよく叩きつけられ、痛そうに体を震わせると一瞬にして消えた。
カカシの犬にしてはたい した事ねえなとうそぶいて、男は犬の残した歯型を見遣った。鋭い牙は肉をえぐり、血が滲んでいた。だがどうってこたぁねえなと、男は傷をそのままにして飲み屋へと消えたのだった。
カカシの忍犬の牙には、狂犬病のウィルスが仕掛けてあった。じっくりと、ウィルスは何週間か何ヶ月か掛けて脳を蝕んでいくのだ。気付いた時には発病しており、致死率は10割―つまり必ず死に至る。例えカカシの忍犬の仕業だと告発したところで、忍犬は毎月検査を受けているからあり得ないと犬塚家の証言は取れるようにしてある。勿論歯形が残るなんてヘマはしない。だがその前に、発病して既に正常ではない人間に告発などできようはずもなく、結局とんだ災難でと言われながら死ぬしかないのだ。
イルカに関係を迫った馬鹿な上忍は、こうして数ヶ月後に戦場で不可解な狂い死にをする事になったのだった。

そんな事は知らないイルカ達は、ずぶ濡れでイルカの家に辿り着き、有り合わせで悪いけどと言うイルカの、それでも充分工夫された温かい食事を味わうのだった。
ねえイルカ先生、とサクラが遠慮がちに聞くのは、カカシが居ないのはそんなに淋しいかという事で、何故そんな事をと問えば、ずっと溜息ついて窓の外を見たりしてるから。とイルカの顔を覗き込んで、大人の表情を見せる。
え、と思わずイルカは両手を頬に当てうろたえた。
いやただ今日は雨で月が見えないからと、答えにならない答えを返して口篭るイルカは、誰がどう見ても恋する乙女だった。ナルトはそんなイルカに不審な目を向けぼそりと、カカシ先生は何考えてっかわかんねえから、イルカ先生不幸になっかもしんねえ、と独り言のように言う。でもさ、やっぱ幸せになって欲しいからオレ、カカシ先生に言っとく。と力を篭めて笑って見せるナルトだったが、もしこのナルトの言葉をカカシが聞いていたら、よく判ったなと誉めてやったか、鋭いナルトに危険を感じて殺そうとしたか。
そんなんじゃないのよと体中で慌てるイルカは、しかし所々で見せるカカシの『気持ちのようなもの』は、本当に何なのだろうとふと思うのだ。そしてカカシを拒否出来ずに、丸っきり受け入れてしまう自分の心は。
今日は上弦と呼ばれる半月で、丸い方が下に来ているはずだ。カカシの居る所は晴れているのだろうか、そして月を見上げているのだろうかと、小降りになってきた空を見て思う。
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