20

ぎりぎりと歯を食いしばり、松田の屋敷までを怒りに任せて歩くカカシは追い詰められた獣の顔だった。ぶつかりそうになって目が合い、怖がる子供に気付いて立ち止まる。
「落ち着け…。」
自分に言い聞かせ肩の力を抜くと、しわくちゃになったたとう紙を持ち直した。
情けない。
カカシは重い足を叱咤し歩を進めながら、イルカの幸せだけを願うように努めた。
久方振りの松田は、睡眠不足の上にイルカを想い神経をすり減らしたカカシを見て笑った。
「何だその顔は。佳き日にしかめ面でおるでない。」
無神経な―と怒っても、松田はカカシの想いを知らない筈だから仕方ない。心中で舌打ちし父から預かった着物を松田に差し出せば、暫し待てとそれを抱えたまま下男の部屋に押し込まれた。
住み込みの下男が何人か寝泊まりする部屋に、初めて足を踏み入れた。見渡せば案外こざっぱりとしていたが、鴨居に掛けられた人数分の松田の紋の法被を見付けてカカシは力の抜ける膝と心を自覚した。
たとう紙を抱えながらも足を投げ出して、カカシは虚ろに法被を見ている。
―ああハレの日に皆がこれを着ていたなあ、と思い出す大笑いした正月や十五夜の行事。現実逃避にカカシの頭がほわんと霞みかけた。
「おやおや畠殿はまだ着替えておらんのかな。」
「そらそら、それはお主の衣装だぞ。」
「いつも婆やに着せてもらっておるのだろう、お坊っちゃま。」
あれあれと思う間もなくカカシは正装の人形になった。左右の胸に畠の紋がある理由も解らないまま、さあさあと連れ出されたのは昨日まで自分も飾り付けに関わった座敷だった。
上座の金刺繍の座布団に座らされた。目の前には左右に向かい合った人々が、ずらりと奥まで並んでいる。大半がカカシが出向いて手紙の返事を貰った武家や商家の主だった。
一斉にカカシを見てはにこやかに頷き、隣と談笑している理由が解らずに腰を浮かしかけた。いつの間に来たのか斜め後ろの父サクモが、座れとカカシの肩を抑えた。
え、と振り向こうとしたその時唄と共にしずしずと部屋に入ってきたのは俯いた白無垢姿。
ぼうっとしているとカカシの隣に失礼しますと座るので、はいと反射で返してしまった。
もしや自分は寝不足で下男の部屋で眠ってしまったのか、またはお狐様に悪戯されて夢の中か。
あり得ない事に、神主が至近距離で何やら唱えている。
あれ、祝言ってこんな感じだったっけ。いや祝言なのか、そう…だよな。
誰の?
神主がカカシの名を唱えた。
ああ私だ。
続いて神主はイルカの名を唱えた。
そうか、イルカ殿か。
再度え、と腰が浮きそうになって今度はゲンマに座れと耳に囁かれた。
何を寝ぼけていやがる、とカカシは正座の足をつねられてこれは現実だと認識した。
気付けばだだっ広い座敷の真ん中が六畳程も空けられており、そこにいた神主はとうに去って代わりにハヤテが座っていた。
祝いの唄を吟ずるのはアスマで、それに会わせてハヤテがふた振りの刀を操り踊る。
知らなかったなあ、アスマ殿はなかなか良い声をしてらっしゃる。ハヤテ殿が何とかいう流派の免許皆伝とは聞いていたが、刀ふた振りで踊るなぞ至難の業であろうに。
またいつの間にかそれも終わり、松田の挨拶が始まっていた。
あれ、今まで松田様はどちらにおいでだったのだろうか。…私に話し掛けておられる。
「カカシ、あまりに嬉しくて呆けるのも無理はないがな。」
くすりと笑った松田がカカシの手を隣のイルカの手に重ね、自分の両手で挟み込んだ。
その時初めて、イルカの顔を見た。綺麗に化粧したイルカにみとれ、カカシの顔が染まる。
松田が小さな声で娘を宜しく頼む、と言って頭を下げた。その声は慈愛に満ちた父親だったと、後からカカシは胸を熱くした。

そしてイルカはカカシに嫁いだ。
松田はヒルゼンに騙されたのだと聞いた。
イルカが子を孕みしかしヒルゼンが怒りにイルカを遠くの親類に預ける画策をしている、と使いが来て慌てて祝言を挙げる為に江戸に戻ったのだと。
松田がその足でヒルゼンを訪ねれば、知らぬ存ぜぬと惚けて笑ったのだ。
「あたしに断れない縁談が来ていたので、お父様は松田様を担ぎ出したようです。」
イルカが膝枕のカカシの髪を撫でながら教えてくれた。
かねてから縁談を持ち掛けてきていたどこぞの武家が、有無を言わせず祝言の日を決めて通達してきた。断れば木乃葉屋を潰すと脅され、イルカは覚悟して嫁ぐ事を承諾する。
それから始まった今回の騒動は、遥かに格の違う松田が出てきた事でこうして大団円となったのだった。
イルカはヒルゼンの隠し子のまま、松田の親類の養女となって畠の家に嫁いだ事になって。

祝言の後、イルカは一度だけ松田をお父上様と呼んだ。
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