16

松田からの返事はなかなか来なかった。カカシは週に一度木乃葉屋にそれを知らせに行くが、イルカの様子を聞く事は避け店頭で踵を返していた。しかしその度に誰かしらが、イルカは塞ぎ込んでいるとカカシの背中に告げる。
だとしても、役目は終わったからとカカシは走って逃げ帰るだけだ。
不安なのだろう…会いたい、会って側に付いていてやりたい。けれどヒルゼンに用済みと言われてしまったし。
悶々としていた。仲間に誘われても吉原に行く気にもならず、カカシはただ刀の稽古に励む日々だった。
漸くひと月後届いた巻き紙の長さは広げれば一間にも及び、どれだけ自分が身勝手で人に迷惑を掛けていたかという詫びだけでも、広げたヒルゼンの両腕の幅の長さに綴ってあった。
「前置きが長いのう。それだけ悩んだのだろうな、二行か三行ずつ筆を置いては書いておる。」
「それで、松田様は、」
「まあ待ちなさい、畠殿。」
巻き紙を胸にしまいヒルゼンの元へ駆け付けたカカシは座敷に通されそれを手渡したが、読み終わるまでいろと言われてそわそわしていた。
途中で休憩を挟みヒルゼンが独り言のように溢せば、噛み付くような勢いでカカシが迫る。まあまあとその肩を叩き、ヒルゼンはにこりと笑って先を読む。
「もし娘と判ったら。」
絞り出したカカシの声は、弱々しく掠れていた。
「いや、取り敢えずは判明が先だと書いてある。だが結果いかんによっての対処は考えているそうだ。」
急がん方が良い。とヒルゼンは松田の考えが理解できたかのように、カカシを見据えてゆっくり諭し始めた。
「お主は松田様の信頼する家臣だ。信頼されている家臣が、主君に疑問を持ってどうする。」
カカシの目が伏せられ、項垂れて縮こまる。松田を育てたヒルゼンの言葉は、誰の説得よりもカカシの心に沁みた。
「若いのう。」
あの頃の松田を思い出す、とヒルゼンは苦笑した。
「さて畠殿をイルカより遠ざけたのはだな、」
おもむろにヒルゼンは立ち上がり、障子をすっと僅かに開けて表の通りを覗いた。
「考える時間が必要かと思ってだな。」
「何を、でございましょう。」
思わずカカシは腰を浮かせた。狸爺の腹は、まだ若造のカカシには少しも読めない。
「一生を共に終える覚悟をだ。」
ぱんと障子を閉めたヒルゼンは、意地の悪い顔でカカシを見て笑った。
「え、それは、」
動揺を隠せず、カカシは言葉に詰まった。
イルカを嫁にめとる事ができればと、確かに思いはした。しかしお互いの環境は違いすぎ、ましてや本当のイルカの身分は自分より遥か雲の上なのかもしれない。
諦めて幾つか来ている縁談を真剣に考えようと、カカシは思い始めていたのだが。
「まあそうは言っても、イルカが畠殿をどう思っているかは聞いておらんのだろう?」
「…はい。」
「あれは人の出す気配に敏感だから、嫌われていると判れば二度と近寄らん。」
だが、とヒルゼンは腕を組みカカシの眼前に膝を折った。
「なあカカシ殿。」
唐突に下の名を呼ばれてカカシはひるんだ。
「初見からイルカを気にしていたのであろう?」
ずばりと切り込まれ、カカシはうっと息を詰める。
あの日座敷に入ってきて挨拶をするイルカは、まだ乳臭い小娘に見えた。カカシは女といえば駆け引きに笑う商売女しか知らなかったから、第一印象はそうでも仕方ないが。
しかし受け答えは人生を何もかも知り尽くした大人に思え、幾つか年上のカカシが引け目を感じた位だった。
大人と子どもが共存する年頃なのに、言葉は甘えていてもつけ入る隙がない不自然さ。
その時何故か一瞬、カカシはイルカを抱き締めたいと思った。そしてはっと目を見張るイルカと見詰め合い、お互いに目を逸らせた。多分誰も気付かなかったろう。
思い返せばその時には、もうイルカに囚われていたのだろう。
「目が、合いました。」
でもその一瞬でイルカがカカシの人となりを見極めたとは思えない。
「イルカが眠りにつく時にカカシ殿を選んだ、それが全てであろう。」
本当に?
そうならどんなに嬉しいだろう。
「それから、番屋の者達の事だが。」
しまった、とカカシは拳を握り身を正した。イルカの出自を確認する方が先ではなかったか。松田の返事はそれからの事だった、急ぎすぎた。
「それも先程、当時事件を扱ったという者が二名見付かったらしいと連絡が来た。」
番屋で直接事情聴取になるという。できればお供をしたいとカカシが意気込めば、当時を知るカカシの父がいなければ検証はできないのだとヒルゼンは呆れて溜め息をついた。
「色々と照らし合わせねばならんからな。さあ早く戻って、サクモ殿に伝えてやってくれ。」
いやまだ決まった訳ではないか、とそれでもヒルゼンは優しい笑顔だった。
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