世間は今年も浮き足立っている。去年も一昨年も、きっと来年も再来年も同じだ。多分自分が年を取って死ぬまで続く事だろう。
そう考えたら憂鬱を通り越して世界が滑稽に思えてきた。
「多分私には一生縁がないしねえ。」
見上げたデパートの屋上から下がる巨大なビニールの垂れ幕には、世界の有名ショコラティエによるバレンタインフェアとでかでかと書いてある。同僚達によれば毎年大盛況らしい。義理チョコ以外に買った事のないイルカは、一粒がラーメン一杯と同じ金額だと聞いて声を出すのも忘れたまま口を開けて驚いたものだった。
だが逆に今のご時世、男性も女性も結婚しないどころか恋人もいらないという若者も増えているという。一人の方が気楽で好きな事に専念できるという学生時代の友人は、歌手と俳優の追っかけを優先して一年のスケジュールを組むのだと書き込みで真っ黒な手帳を見せてくれた。ちょっと心配にはなったけれど別に追っかけの相手に恋心を抱いているわけではない、ちゃんと現実は見据えた上での事だから結婚に興味はないけど老後の蓄えはしてるわよと笑うので心底安心したのだ。
そういやイルカの趣味って何?とその友人が聞いてきた。あれそうだね何だろう、とイルカは首を傾げた。我が事ながら解らない。
月曜から金曜まで会社の自分の机で仕事をし残業も毎日一時間程度、電車でひと駅隣に帰宅後は簡単な食事を作り食べながらテレビを見る。毎週楽しみなドラマは幾つかあるけれど、それ以外は寂しいからという理由で寝るまで適当にテレビをつけっぱなしだ。
えーと、会社が休みの日は?
土曜日は昼少し前に起きて一週間分の洗濯をし、財布の中のレシートや郵便物を仕分けて捨てたりほつれた服の裾上げやとれかけたボタンつけをする。
それもない時は付録のポーチやバッグが目当てで衝動買いした雑誌を広げ、たまには通勤用の服も買おうかと悩むんだりする。殆ど暖色を着ないイルカに、職場のロッカーでこんなのどうかしらと自分のおニューを勧めた同僚のワンピースは少しだけ気になっていた。
それから通勤電車でスマホを見てチェックしておいた好きな作家の新刊や美術館博物館の詳細を調べ直しているうちにお腹が空腹を訴えて、時計を見れば大体近所のカフェのランチタイム終了30分前だ。
スマホと財布の入るミニトートバッグを手にし、とりあえず外に出ても恥ずかしくないだろうと自分では思う部屋着でカフェに向かう。徒歩三分。
日の射す昼間だからと油断した。襟のない薄手のコートに手袋なし、イルカが外に出た途端にいきなり強くなった北風に正面から立ち向かう形になってしまった。思わず走る。
「さーむーいー。」
カフェに入った瞬間に無意識に声が出た。あ、お客さんが何人かいたのね。すみません、と頭を下げて入り口から長く続くカウンターの一番奥に座った。
店は奥に細長く、四人掛けと二人掛けのテーブルセットが二つずつしか置けない。しかもそれらの間は、身体を翻してすり抜けなければ歩けないほど狭かった。
「イルカちゃん、二番Aにこれお願い。」
髭のマスターがカウンターにパスタの皿を置いてイルカに告げる。マスターがキッチンの中から出てお客さんの前に皿を置くまでの手間を思えば、イルカが受け取って後ろを振り返り数歩で提供できる方が良いに決まってる。
両手に皿を持って四苦八苦しながらテーブルの間を歩く姿をはらはらしながら見ていたら、自然と手伝いますよと言っていた。以来イルカは珈琲数杯をバイト代として、客として来た時だけだが手伝っている。
イルカの学生時代のアルバイトはずっと一つの飲食店だった。イルカの料理の腕がプロ並みだったから、就職の三日前まで辞めさせてもらえなかったという伝説を残している。
今はそれを隠してはいるけれど、どうもマスターには料理ができる事がバレているような気がする。新作のオリジナル料理の味見をさせられて、調味料は何が足りないのかと聞かれたのがその証拠ではないだろうか。
「でさ、あれカカシにも味見をさせたんだけど、あいつ旨いも不味いも解らん奴だったわ。」
「へえ、仕事は誰よりもできるし社長にも一目おかれている存在らしいですけどね。」
同じ会社の隣の部屋にいる男は、営業課の中でもトップだという。広報課のイルカには九割九分関係がないから、たまに廊下で目が合って挨拶をする程度だった。
それなのに二人ともこのカフェの常連客だった事が判明したのがひと月前だ。イルカは土日にもランチがあるから嬉しくて通っていてカカシも店の定休日以外は夕飯を食べる為に通っているが、つまり時間帯が違うから会った事がなかったのだ。
その日イルカは前夜遅くにレンタルしたDVDを観て、起きたのは午後三時を回っていた。ランチの時間はとうにすぎていたが、家に食べ物がなかったのでカフェに来た。
そうしたらカウンターに突っ伏して眠るカカシがいたのだ。しかも小さくいびきをかいている。驚いた。
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