19

約束通りゲンマは四日で帰ってきた。しかも松田付きの忍びのハヤテを伴って。
松田が駕籠ではなく自ら馬を駆って向かっていると聞き、江戸屋敷は支度をする者と途中まで迎えに出る者と入り乱れて大騒ぎになった。
「ハヤテ殿が表の道を歩くなぞ、初めてではないですか?」
「そうですね。色々ありまして、今回は武士として参りました。」
年はカカシの幾つか上か、剣豪を数多く排出する有名な道場の跡取り息子としか教えてもらえない謎の男。
答えたハヤテは、ほぼ不眠の早駆けで疲労困憊の顔を歪ませて笑った。企み事の顔。
「…イルカ殿の事ですか。」
現実を受け止め前を向こうと決めたカカシは、今はただ純粋にイルカを心配していた。まつりごとに利用されないか、イルカの人格は無視されないか。
主君がそれほど急ぐからには何か、もう動き出したのかもしれない。
「眉間の皺が酷いですよ。」
病気持ちのハヤテこそ始終咳き込んで皺が取れなくなっているのに、とカカシは眉間を擦って本当だと力なく笑った。
忙しいからイルカの事を考えずにいられる。
昼夜問わずに言い付けられる雑用を、カカシは率先して引き受けていた。何の為に、誰の為に、何故今、何故自分が、と巡る思考を追い払うのに大分難儀した。
屋敷の中でも主に会議に使われる、一番広い続きの二間を畳替えまでして襖も障子も新品に入れ替えた。
「こりゃあ祝言だな。」
何日目かに有名な絵師の屏風が運び込まれるに至ると、年配の者達が自分の時はと楽しそうに話し始めた。
幸せそうな彼らは十年二十年たった今も、家庭を大事にし妻や子を慈しんでいる。たとえ見合いで知らない娘をめとっても、次第に愛情は芽生えるものなのだ。
「元々見合いはするつもりだったしな…。」
徐々にイルカを諦める決心が固まっていく。だからカカシは誰の祝言なのかを詮索することなく、黙々と指示された事だけを続けていった。
部屋はもう今からでも祝言を挙げられる程に支度を終え、花婿と花嫁が誰かという話題に移っていた。
「畠は知らないのか。」
聞かれても知らないとカカシは首を横に振る。
「殿には誰ぞ縁者がおりましたかな。」
「さて、これ程急にわざわざ江戸でなど。」
「まさか殿が。」
「ないない、お一人が楽しいと仰っておられる。」
結局誰も知らないまま松田が到着し、松田は何も言わずに各所へと携えていた書簡をカカシに配らせる。
返事を貰う事、とだけでカカシは相手の質問に答えるだけの情報を持たない。だが何処でも二つ返事で参ります、とだけ言付かって戻った。
「ご苦労だった。」
十件程にほぼ一日を掛け、抜いた昼飯は家で食べろと帰された。
父サクモは松田に付きっきりで、カカシと顔を合わせる事はなく夜遅くに戻った。
「父上、お疲れのようですが私にできる事はございませんか。」
松田の用事は大抵カカシにも振られる筈だが、今回は何故か回ってこない。父の身体を心配するカカシに、サクモはこれが私の最後の大仕事だからと言葉に力を籠めた。
「お前には明日、とても重要な仕事が控えておるからな。」
「とても重要な…ですか。それは今教えてはいただけないのでしょうか。」
詰め寄るカカシにまあまあと、サクモは笑って答えなかった。
明日、多分誰かの祝言が執り行われる。その時に自分が何をするというのか。何かを隠され謎ばかりで、もやもやする心を抑えて布団に入ったが一向に眠気は訪れない。
違う、眠いのに苛々するんだ。見ない振りをしていたからか。
続けざまに欠伸が出る程疲労は溜まっているのに。
祝言はイルカではないのか。ハヤテは、江戸に来たのはイルカに関係しているのかという私の質問をはぐらかした。
カカシは導き出された確信に、涙の溢れそうな瞼を寝巻きの袖に押し当てた。
まだ誰も起きてはこない早朝、寝不足の目元を濡らした手拭いで冷やし頭も冷やしてカカシは腹を括った。
祝言の相手がもしもイルカに相応しくない男だったら、最中だとてぶち壊してやろう。父には悪いが、これからのイルカの人生を安らいだ温かなものにしてやりたい。
自分だったら、慈しんで大事に守ってやれるのに―自分だったらと思った事に気付いたカカシの顔が赤く染まった。
しかしそれはあり得ない。接点は夢見とあやかしだけ、交わらない身分。
ああでも、祝言をぶち壊してイルカを拐って、と一瞬想像してカカシはぞっとした。
武士の身分を失い家を失って金も仕事もなく、イルカを不幸にするだけだ。
カカシは思いを振り切り、早朝から竹刀を握って稽古に気をまぎらわせた。
「カカシ、先にこれを持ち松田様を待つように。」
たとう紙に包まれた着物を渡された。男物だ。
イルカの婿の着物か、と思うと頭に血が昇った。
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