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八月 その四
いつから、などとは知らないがとにかくイルカさえも欺いて、今カカシは舞台で神の舞いを舞っている。白い着物に白い紗の衣を羽織り、いかにも神様の風体をしたカカシが軽やかに舞っている。
見とれている間に、それは終わりに近付いていた。
イルカは肩を叩かれ自分の出番が数秒後だと気付き、舞台にまた足を滑らせた。
胸を張り、イルカは重い着物を引き摺りながら鼓の音に耳を傾ける。よく響くその調子と朗々とした謡いが、イルカの舞いを煽る。
何も考えない。既にカカシの事など忘れ、舞いに集中しているイルカの妖艶な姿に、観客は声も出せず固唾を飲んで見入っていた。
私は厄介者だけれど、こうして皆の役に立てるのは嬉しい事だ。人柱、捧げ物、いけにえ、何と言われようが私は誰にも恥じる事はない。
それは役柄ではなくイルカ自身の思いなのだろう、と感じ取った忍び仲間達は、明日ここで執り行われる予定のイルカとツグナリとの婚姻を、未だに憂えていた。
―カカシが掠っていけば。
―抜け忍の末路は解りすぎる程だろう?
―あちらから断ってくれないだろうか。
―何を今更、あるわけないだろ。
―イルカは一族の元々の国の国主として据えられるそうだ。
―何だそれ。本当か。
―その為にイルカと自分のこどもを結婚させる訳さ、あの親父。
―あのツグナリってのも可哀相な奴なんだな。
はあ、と溜め息が聞こえた後は無言が続いた。誰も祭りを楽しもうとは思えないのだ。まして警備に気を抜いてはいけないと判っているのに、おざなりにしか出来ない。
はあ、とまた誰かの溜め息が聞こえた。

舞台の舞いは佳境へと進み、イルカの動きはいよいよ激しく為っていく。
打ち掛けが脱ぎ捨てられた。遊女のなりの女が神を恋うて狂おしく舞う。地に降り立った神をひとめ見て、人柱の女は最初で最後の恋に落ちた。
私は何て幸せなのでしょう。貴方に会えた、それだけでもう悔いはありません。これまで生きて来た辛さも帳消しに為る程、私は幸せなのです。
予定と違う、本来の舞いだ。扇がくるくると蝶のように空を切って、切ない恋心と女の流転のさだめを表している。鼓と謡いは一瞬躊躇ったが、イルカが続けて、と小声で言い切るとそのままそれは一層速く大きく鳴り、謡われる。
謡い手は誰だったかしら、ああハヤテさんだわ、本当の曲はご存知よね。
ハヤテの一族は剣の舞いを継承する。そして祭りの謡いも同様に、武道も芸能も伝えられているのだった。
お願いです、最後まで。
唇の動きだけで読み取ったハヤテは、正座の片足を立て忍びの待機の姿勢を取った。何が起ころうと俺達はお前の味方だ、安心して最後まで舞え。
鼓を打つのはイルカの教え子だった。やはり継承される一族で、若いながらも既に家督を継ぐ実力のある身だ。
先生、心置きなく舞ってください。と目が合って微笑まれた。
ありがとう。皆、我が儘を聞いてくれてありがとう。
殆どの観客は舞いの筋書きなど知らない。奉納の舞いだとしか聞かされていない筈だが、五十年前の祭りを知る者も僅かながらおり、彼らは只息を飲んで見守っていた。
何かが起こる。それだけは判るのか、熱気が会場である境内を支配していた。
神よ、私は貴方の為にこの命を捨てましょう。貴方が恋しい、けれど私は何も望みません。いいえ、私が貴方に望む事は唯一つ。どうか、私の命は貴方の手で終わらせてください。命尽きるその瞬間迄、貴方を感じていたいから。
イルカの額に浮かぶ玉の汗は、やがて流れて滴り落ちた。きらきら光る黒い目からも雫が零れるように見えたのは、錯覚だったかもしれない。
とんとん、すととん。イルカの足捌きが一層速くなり、舞台狭しと扇が空を切って最後の決めに入る。ありがとう、さようなら。
崩れ落ちるように膝を着き、イルカは顔を伏せた。謡いも鼓も止まり、終わりだ、と息を整えながら疲労に立てない脚に力を籠めようと踏ん張る。わあっと歓声が上がり、しかしイルカは何事かと思いつつも動けずにいた。
そのままで、と確かに聞こえた声は。
カカシ先生―。
イルカの肩が震えた。これから神の舞いがまた始まるんだわ。人間の女への想いを封じ込めた侭、神はその女の命を奪うんだったっけ。だけど二人の絡まる舞いは無い…いやあったわ、お互いに心を打ち明けられずに、でも解り合ってしまう。哀しい結末を、でも嬉しいと思い死んでいく、それは私なんだろうか。そう、私なんだわ。
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