放課後の職員室でぼうっと天井を見ていたイルカは、夢で会えたらなあと呟いた。ふと夢でもいいから会いたい、と思ったことを本人は自覚も無しに口に出したらしい。
普段は上司にさえ噛みつく勇気を持ち合わせているのに、こと恋愛となると多分アカデミーの低学年レベル以下と言っても良いほど臆病で消極的になるイルカだ。想いがほんの少し膨らんでくると、自分は相手に相応しくないときっぱり諦めてしまう癖がある。
それでも最近は相手が夢に出てくる事を願えるのだから、少しは成長したのかもしれない──と本人は思うのだけれど。違う、それほど思い詰めているのだ。ただひたすらその者を慕って。
会いたいなんて言い方は、相手がこちらを個として認識してからの話。一方的な認識ならば姿を見たいという言葉を使うべきだ、ときちんと理解はしている。
イルカの場合は相手にとってその他大勢の中で顔と名前が一致する程度だから、顔を合わせたところで軽く頭を下げてはくれるがすぐに目を逸らされるだろう。自分の教え子の上忍師が彼だという、それだけ。だから個の認識はされていても、薄っぺらい表面的な。
うん、それだけの関係だ。
言い切った自分自身に傷付けられて、胸を押さえてひっそり笑う。それを見てどうしたと隣の男が聞いたが、イルカは何でもないと立ち上がった。
今日はもう日誌も書き終わったし、受付にも入らないからやる事はない。
あ、一つあったなと三代目に渡す書類を探すべく後ろの書類棚へと振り向けば、その途中で視界に入った職員室の出入り口にどきりと胸が跳ねた。
開け放されたままの引き戸からは、廊下が良く見える。廊下を歩く者が見える。
嘘、今、カカシ先生と目が合った。
のんびりと職員室の前を通りすぎるカカシと一瞬だけ、確かに視線がぶつかった。カカシはそのまま行ってしまったけれど、まずはありえないだろう事実にイルカの膝は震え脱力しかけている。
マジかよ、今日はもう会えないって諦めてたから最後に小さな幸せ来ちゃって俺死にそう。
そっと書類棚に額を付けて寄り掛かり、ほっと大きな息をついた。
「イルカ、悪いな。お前だけ怒られる事になっちまって。」
先ほどからのイルカの様子に、同僚は三代目に会うのがよっぽど嫌なのだろうと勘違いしている。
誰かがうっかりして、期限をすぎてしまった書類だ。支払いに関するものだったので信用問題も発生してしまうと慌て、三代目に報告した後相手方に謝罪に出向く者をじゃんけんで決めた。そしてイルカが負けたのだ。
「じゃあ行ってくるわ。俺でなくても誰かが怒られるわけだしな、仕方ないさ。」
お人好しは笑ってひらひらと手を振り、進まない足を無理矢理進ませて三代目の元へと向かった。よしっと気合いを入れてドアの前で姿勢を正す。ノックに応える声があって、だが火影以外の声も聞こえ恐る恐る中に足を踏み入れる。
「あ、」
カカシがいた。そういえばこの人がさっき歩いていた方向の突き当たりの階段を昇ればこの部屋ではなかったか、とイルカは思い出した。
「三代目、あとどのくらいでお手空きになられますか。また後で参ります。」
先程の三代目の返事は入っていいという意味ではなく、部屋にいますよという主張だったかもしれない。入れとは言われなかったような気がする。今更だがと後ずさりしながら問い掛けると、代わりにカカシが笑顔で答えた。
「いや、もうこちらの用は終わりましたから。七班の報告だったんですよ。」
え、と口を開けたイルカの顔から察したのか、カカシと三代目が揃って笑い出した。
「イルカ、お前は本当に解りやすいのう。七班の、特にナルトの事が聞きたいと顔にしっかり書いてある。」
なあ、と三代目はカカシに同意を求めた。そうですねえとカカシも火影と目を合わせ頷き、柔らかく微笑んでイルカを見た。
日焼けした顔が赤く染まる。頭に血液が集まってしまったか、手の指先が冷えて痺れた。
「イルカ先生はまだ帰れないんですか。オレはもう何もないので、たっぷり七班の三人の様子をお話ししてあげられますよ。」
「え、いや、もう、三代目への報告だけで帰れます。けど、」
本当にいいんですかと続けたいところが、僥幸に動揺し喉が渇いて舌が縺れるわ胸の動悸で息が上がるわで言葉が出ない。苦しい。
「じゃあ、職員室でお待ちしますね。火影様、そういうことで。」
そう言って部屋から出ていくカカシの背中を見詰め、パタンとドアが閉まった音が合図だったようにイルカはやっと肩で息をついた。
さて、本来の用を済ませなければ。
渇いた唇を舐め、イルカはまず申し訳ありませんと勢い良く頭を下げた。
それからの三代目とのやり取りはあっという間に終わった。事情を一から説明すれぱ、お前に任せようとあっさり書類に担当うみのイルカと書き加えられ。心の準備ができないままに、イルカは職員室に戻っていった。
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