20

一瞬きょとんとしたのちひょいとカカシの膝へ跳び乗った夜は、顔を寄せて低く呟いた。
「何が言いたい?」
鼻先でその顎を上向け、耳の下に前足を押し付ける。僅か爪が皮膚に食い込んだと認識したカカシは、どうぞと片頬で笑んだ。
「やめた。」
大人しく膝に丸くなると、夜はぱたぱたと尻尾を振り始めた。
一連の行動は、ちらりと振り返ったイルカからは親愛の証しに見えたようだ。にこにこしてツナ缶とさっと茹でた野菜を和えながら、夜の代わりに理由をカカシに教える。
「仰る通り、野生の猫科は人に飼われる家猫の発情期や喧嘩の際に出すような声を出します。」
こんな風に、とイルカが真似した潰れた叫び声に夜の耳が動いた。
「酷いわねえ。あたし、そんな声にならなくて良かったわ。」
「夜は子供だからな。」
食べろとイルカが夜に差し出した丸い小鉢は、中に薄く猫の絵が描いてある夜専用だ。
「子供?」
どういう意味かと、カカシは膝の夜からイルカに顔を向けた。
「はい、夜の身体は人間なら思春期の頃のままなんです。」
カカシは山猫を間近で見た事がなく、だから思ったより小さいのは単に雌だからと思っていた。
「心は成長しましたが、身体の成長はあの時止まってしまいましたから。」
ああ蒸し返すようでごめんな、とイルカの眉が下がる。
「平気。あたしは可愛い声が気に入ってるの。」
あの声がわざとではないと解ったカカシは、すまないと夜の頭をそっと撫でてやった。話を聞けば聞く程に何だかこっちが切なくなる。
雄の成猫は中型犬近くにもなるらしいです。そんなに大きかったら自分には扱えなくて、逆に使われていたかもしれませんとイルカは笑った。
「カカシ先生、夕飯はどうしましょう。」
作りおきを食べてくれますか、とイルカは今日も帰る気だ。カカシに引き留める理由はない。
支度をしている間、理由はないかと探すカカシの難しい顔を窺いイルカも無言だった。
また何か言っちゃったのかなあ、とそわそわして上の空でフライパンを振るからパラパラと野菜が落ちてしまうがイルカはまるで気付かない。カカシを盗み見する目は不安気に揺れ、潤んでいるようにも見えた。
あらあらこんなに解りやすいのにどうしてカカシは解らないんでしょ、と夜はカカシを見上げた。
テーブルに肘を着きじっとイルカを見詰める目は、全てを包み込んでただ優しい。
イルカにもこの目の意味が伝わっていない。としたら当事者達だけが解らないわけね。
夜はふんと鼻をならした。
「ねえイルカ、あたしここにいていい?」
わざわざ側に寄り足元でじっと見上げる夜に、どうしてかイルカは駄目とは言えなかった。
「んーと、カカシ先生が承諾して下さるなら。」
「夜、イルカ先生が綺麗にしてくれたベッドで寝るか?」
カカシは返事に代えて部屋を指さした。三代目に何か言われたのか。イルカ先生がいてはいけない話なんだろう、と微笑んでやる。
イルカに寝床のこしらえ方を聞き、枕元にタオルを積み上げた。
「いいタオルね、あたし寝てるわ。」
夜に付着しているであろう何らかの菌が心配だ。しかしカカシ先生は一緒に風呂に入れると言ってくれたし、お互い小さな傷もないから任せよう。
丸くなってイルカの去る時間を待つ夜の思惑など、当人には解るよしもなかったのだった。
夕飯を作り終え、翌日の段取りを確認して帰るイルカを寝た振りで見送る。ドアが閉まると夜は起き出して、ソファで本を読むカカシの隣に落ち着いた。
「話があるんでしょ。」
カカシは夜を見る事なくそっと話し掛けた。
早くと追い立てる問い掛けではなく、言いたくなければ構わないとニュアンスに乗せる。
「まあね。」
ある筈の往来の喧騒が聞こえないのは、いつの間にかエアコンが入り密閉された為だ。静かな夕闇に掛け時計の針のリズムが煩く、夜はそれに追い立てられる焦燥に駆られた。
「イルカを引き受けて欲しいの。」
「それなら、承知したってイルカ先生には言ったけど。」
本から目を外さずに答えたカカシは、違うと焦る声にはっと夜を見た。
「あたし、イルカを置いて逝けない。」
消滅はいやだと俯いた夜の背に手を置けば、僅かにひんやりした身体が震えているように思える。
「うん。」
けれど誰にも夜の中の怨霊を退治する事はできないし、自分の役目はもしも夜を失った時にイルカを支えるだけだ。といっても、具体的な方法は全く想像もつかないけれど。
「あんたが上掛けの術を会得すれば、爺様がいなくても大丈夫なの。」
「え、無理でしょ?」
きちんと前足を揃えて座る夜は、とても冗談を言っているようには見えない。
けれど巻物一本分の量の印が暗記できる訳ないし、そもそもオレには使えないだろう。仮にも火影の編み出した封印術を。
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