「俺、俺、」
くしゃりとイルカの顔が歪み、泣く寸前のところでカカシに頭を下げて帰りますと走り去った。
カカシはその姿が消えても視線で追っていた。中断した為に巻物に戻った小鳥を再度出す作業をのろのろと終えると、イルカの代わりにシズネを寄越して欲しいと里へ小鳥を飛ばした。
今夜中に都合を付けて、明日午前中の早いうちにシズネは来てくれるだろう。綱手とともに里で留守番をしてくれているのだ。
「オレ、坊さんになろうかな。」
寺に籠って一生イルカに会わなければ、修行でいつかは想いを昇華できるのではないか。
1万回経文を唱えれば、イルカを忘れる事ができるのではないか。
滲む涙を手の甲で擦り、カカシは風になるほど大きな溜め息をついた。よいしょと読みかけの巻物の前に正座し、気持ちを落ち着ける。少しでも仕事を進めなければ、終わりには近付かないのだ。
イルカの事は今は、と胸にしまおうとしたけれどとても無理で。カカシは結局巻物を一本も読み終われなかった。
夜は夜でまた、娘達と夕食会になった。大名が現れたカカシに問う。
「うみのはいかがした?」
イルカが挨拶もせずに帰還する筈はない。カカシが聞き返すと、大名は昼から今まで出掛けていたのだと言う。
雇われた屋敷の者達の、誰もイルカの姿は見ていなかった。屋敷を取り囲む庭の伸びすぎた植木の枝を伐採していた下男達も、どこからもイルカは出ていかなかったと口を揃えた。
「あやつも忍びだ、火影殿に言えん事もあるだろう。」
「…そうですね。」
相槌を打ちながら、イルカの性格上あり得ない事にカカシは動揺していた。先程のやり取りに怒ったとしても、周りが見えなくなるような人ではない…筈だ。
初めて見た、悲しくて辛くてでもまだ燻る感情を抑えたような顔。
「まあ忍びですから、誰にも知られず出ていくのは朝飯前ですし。」
あの人でなければ立ちいかない事もあります、とカカシはぎこちなく笑って見せた。
カカシ一人と解れば、きっと女達の誰かが部屋に忍び込もうとするだろう。もしかしたら集団で襲われるかもしれない。
それで誰かを孕ませれば解決だ。…いやあの里が、こいつらくそ親父どもに乗っ取られてしまう。冗談じゃない、オレの里を守りたいんだ。
ならば一人にならないように。
カカシは自ら酒宴を持ち掛けて、朝まで騒ぐ事にした。娘達を適当にあしらい、決して一人にならないように。
そうして徹夜で朝を迎えた。殆どの男は座敷で潰れて寝ており、娘達は途中で引き上げている。
漸く朝日が顔を出してきた頃、カカシは一旦部屋に戻り風呂に入る。ぬるめの湯でゆっくりと酒を抜きながらまた巻物と格闘かと思うと、付随してイルカも思い出してカカシは泣きそうになった。
朝のひやりとした空気に触れる為に窓を開けると、小ぶりの若鷹が部屋の中に音もなく滑り込んだ。
綱手からだ。
シズネは里に持ち込まれた大きな依頼を捌いているから、こちらに寄越すわけにはいかない。
そしてイルカは帰還していない。
「イルカ先生はどこ?」
嫌な予感は昨夜からしていた。けれどカカシはイルカに醜態を晒したから恥ずかしくて会いたくなかったし、無断で結婚の話を進めようとした事では怒りが燻り続けていた。
イルカは帰ると言って出ていったから、いきどおりのあまりに礼儀を失し黙って帰還したのだと、悩んだ末にカカシは勝手に結論づけていた。
綱手にはイルカが行方不明かもしれないが、自分が動くので暫くだまっていてくれるようにと鷹に言付けた。
イルカは本当に、この屋敷を出ていったのか。
何処かで敵に襲われて動けない程の傷を負って―もしや死んで―。
「違う。イルカは生きてる。」
カカシは部屋をうろうろと歩き続けながら考えた。確かにイルカならば、一般人しかいないこの屋敷の誰にも見られずに一瞬で遥か遠くまで移動できるだろう。アカデミー教師とはいえ、忍びとしての実力はカカシも一目置いているのだ。
あ、と何かが引っ掛かる。
初日からのイルカの言動を思い起こせば、一つ気掛かりがあったのだ。
呪術、呪詛の残滓。
暗部の感知タイプの奴とイルカの二人が言うからには、何もないとは思えない。イルカの報告も見張りを追い払った時に、中途半端に終わらせてしまった。古い習わしとも教えられていたので、危険性はないと軽んじていた。
カカシは窓から外の樹の枝に飛び移り、辺りに気を巡らせた。
目には見えないがそこかしこに祀られた小さな祠から、ほんの少しずつ悪気が立ち上るのを全身で感じた。カカシは込み上げる吐き気を堪え、皮膚感覚でじっと悪気の行方を追う。それらは次第に集まり、この屋敷に向かってきていた。
イルカは悪気の向かう先にいると確信し、神経を集中させた。
くしゃりとイルカの顔が歪み、泣く寸前のところでカカシに頭を下げて帰りますと走り去った。
カカシはその姿が消えても視線で追っていた。中断した為に巻物に戻った小鳥を再度出す作業をのろのろと終えると、イルカの代わりにシズネを寄越して欲しいと里へ小鳥を飛ばした。
今夜中に都合を付けて、明日午前中の早いうちにシズネは来てくれるだろう。綱手とともに里で留守番をしてくれているのだ。
「オレ、坊さんになろうかな。」
寺に籠って一生イルカに会わなければ、修行でいつかは想いを昇華できるのではないか。
1万回経文を唱えれば、イルカを忘れる事ができるのではないか。
滲む涙を手の甲で擦り、カカシは風になるほど大きな溜め息をついた。よいしょと読みかけの巻物の前に正座し、気持ちを落ち着ける。少しでも仕事を進めなければ、終わりには近付かないのだ。
イルカの事は今は、と胸にしまおうとしたけれどとても無理で。カカシは結局巻物を一本も読み終われなかった。
夜は夜でまた、娘達と夕食会になった。大名が現れたカカシに問う。
「うみのはいかがした?」
イルカが挨拶もせずに帰還する筈はない。カカシが聞き返すと、大名は昼から今まで出掛けていたのだと言う。
雇われた屋敷の者達の、誰もイルカの姿は見ていなかった。屋敷を取り囲む庭の伸びすぎた植木の枝を伐採していた下男達も、どこからもイルカは出ていかなかったと口を揃えた。
「あやつも忍びだ、火影殿に言えん事もあるだろう。」
「…そうですね。」
相槌を打ちながら、イルカの性格上あり得ない事にカカシは動揺していた。先程のやり取りに怒ったとしても、周りが見えなくなるような人ではない…筈だ。
初めて見た、悲しくて辛くてでもまだ燻る感情を抑えたような顔。
「まあ忍びですから、誰にも知られず出ていくのは朝飯前ですし。」
あの人でなければ立ちいかない事もあります、とカカシはぎこちなく笑って見せた。
カカシ一人と解れば、きっと女達の誰かが部屋に忍び込もうとするだろう。もしかしたら集団で襲われるかもしれない。
それで誰かを孕ませれば解決だ。…いやあの里が、こいつらくそ親父どもに乗っ取られてしまう。冗談じゃない、オレの里を守りたいんだ。
ならば一人にならないように。
カカシは自ら酒宴を持ち掛けて、朝まで騒ぐ事にした。娘達を適当にあしらい、決して一人にならないように。
そうして徹夜で朝を迎えた。殆どの男は座敷で潰れて寝ており、娘達は途中で引き上げている。
漸く朝日が顔を出してきた頃、カカシは一旦部屋に戻り風呂に入る。ぬるめの湯でゆっくりと酒を抜きながらまた巻物と格闘かと思うと、付随してイルカも思い出してカカシは泣きそうになった。
朝のひやりとした空気に触れる為に窓を開けると、小ぶりの若鷹が部屋の中に音もなく滑り込んだ。
綱手からだ。
シズネは里に持ち込まれた大きな依頼を捌いているから、こちらに寄越すわけにはいかない。
そしてイルカは帰還していない。
「イルカ先生はどこ?」
嫌な予感は昨夜からしていた。けれどカカシはイルカに醜態を晒したから恥ずかしくて会いたくなかったし、無断で結婚の話を進めようとした事では怒りが燻り続けていた。
イルカは帰ると言って出ていったから、いきどおりのあまりに礼儀を失し黙って帰還したのだと、悩んだ末にカカシは勝手に結論づけていた。
綱手にはイルカが行方不明かもしれないが、自分が動くので暫くだまっていてくれるようにと鷹に言付けた。
イルカは本当に、この屋敷を出ていったのか。
何処かで敵に襲われて動けない程の傷を負って―もしや死んで―。
「違う。イルカは生きてる。」
カカシは部屋をうろうろと歩き続けながら考えた。確かにイルカならば、一般人しかいないこの屋敷の誰にも見られずに一瞬で遥か遠くまで移動できるだろう。アカデミー教師とはいえ、忍びとしての実力はカカシも一目置いているのだ。
あ、と何かが引っ掛かる。
初日からのイルカの言動を思い起こせば、一つ気掛かりがあったのだ。
呪術、呪詛の残滓。
暗部の感知タイプの奴とイルカの二人が言うからには、何もないとは思えない。イルカの報告も見張りを追い払った時に、中途半端に終わらせてしまった。古い習わしとも教えられていたので、危険性はないと軽んじていた。
カカシは窓から外の樹の枝に飛び移り、辺りに気を巡らせた。
目には見えないがそこかしこに祀られた小さな祠から、ほんの少しずつ悪気が立ち上るのを全身で感じた。カカシは込み上げる吐き気を堪え、皮膚感覚でじっと悪気の行方を追う。それらは次第に集まり、この屋敷に向かってきていた。
イルカは悪気の向かう先にいると確信し、神経を集中させた。
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