十九
―オレはイルカの泣き顔も、泣き声も、知らなかった。
ああ、泣き出す手前の顔で帰宅しても放って置かれた俺は知らん振りして寝てたんだっけ。あれは卒業生か友人が任務で死んだ時だ、何回か遅く帰宅して。
この子の時もそうだった、風呂場で泣いてた気配だけ知ってる。別れる直前、あの晩を最後にイルカの部屋に行かなくなって数日後に別れを告げて。
イルカが去ってやっと気付いた、オレが弱ってた時には必ず側にいた事を。イルカだってそうして欲しかった筈だ、俺は大事な事にいつも後から気付くんだ。
イルカの無償の愛も。自分から手放してしまった。
こうして抱いてやっても水平線の彼方に流れて行ったイルカの心には、もう二度と寄り添えない。
俺は。
愚か者―。
イルカをぎゅうときつく抱き締めて、再度泣いてもいいんだよと言いながら赤ん坊にするように背中を叩いてやる。
それでもイルカの嗚咽はひっそりと、カカシの服を掴んで押し付けられた胸に温かな涙を吸わせるだけだった。
とんとんと刻むリズムがやがてイルカを眠りに誘う。はあと息を吐いて鼻を啜る音が何度か聞こえ、静かになったと思えばイルカの頭が傾き出した。覗き込むと瞼は瞑られ意識も飛ぶ寸前だった。
このまま眠ってしまうのだろう、記憶もゆっくり出てくれるといいが。
カカシは寝やすいようにイルカを抱き直し、息が規則正しく聞こえるまでじっと待っていた。そしてゆっくりとイルカの身体を布団に横たえ、毛布を肩まで掛けて脇で寝姿を眺める。
「オレは、イルカの中でどんな存在だったんだろうね。」
イルカの微かな寝息に合わせて上下する布団に頭を乗せて、カカシもゆっくりと目を瞑った。
ぴくりと身体を引きつらせ、イルカが絞るような低い声を出した。
飛び起きたカカシは点けたままの天井の照明に目をしばたたかせ、一瞬のちにはっと自分の状況を思い出してイルカの顔を覗き込んだ。
「イルカ、どうしたの。」
眠りの中で何があったのか、うなされながらイルカはしきりに誰かの名前を呼んでいる。――先生若しくは――さん。
耳を口元に寄せたが聞き取れない。
カカシは町田と名乗っていた女を思い出し、イルカの肩を力の限り掴んで叫んでいた。
「あんな女を思い出すな、名前を呼ぶな!」
途端にばん、と突き飛ばされカカシは台所まで飛んでいた。
「私情は挟まないでいただけませんか、先輩。」
床に打ち付けた身体を擦りながら起こすと、息を切らせたむかいがイルカを庇うようにしてカカシにクナイを向けていた。
「青山さんから連絡をもらって急いで来たんですけどね、」
はあはあと肩で息を継ぎながら、崩れるようにむかいは座り込んだ。振り返り額に人さし指を当てると、うなされていたイルカはすうと何事もなかったように眠りについた。
「あ、ああ…。」
カカシは頭を抱えて蹲った。むかいが止めなければ自分はイルカにもっと酷い事をしていた、とカカシの胸が痛む。
「貴方こそ事実を受け止めてくださいよ。」
冷ややかなむかいにカカシは項垂れた。
返す言葉もない。
「うみの中忍の事、愛してるんでしょう?」
え、とカカシが顔を上げてむかいを見れば、苦笑でカカシに手を差し伸べる。その手を取り立ち上がったカカシをイルカの側に座らせ、むかいはすやすやと眠るイルカの手をカカシに握らせた。
「先に任務を遂行する事。それからなら痴話喧嘩でも何でも好きにしろ、と綱手様が仰ってました。」
兎に角、イルカは必ず連れ帰れ。
「イルカはオレとは一緒に帰らない。お前が連れて行ってくれ。」
「うみの中忍は今も先輩を愛しているんですよ、見れば判ります。先輩だってうみの中忍を愛しているでしょう、やり直す気はないんですか?」
むかいが真剣な顔で、カカシの正面に正座し詰め寄る。
「まさか、イルカはオレを切り捨てて女と結婚する気だった。」
「それは先輩との記憶がなかったからですよ、仕方ないでしょう。」
くそめんどくせえ、とむかいは上目使いにカカシを睨んだ。この期に及んで何を言い訳として並べ立てやがる。
「もういいです、うみの中忍には俺が付いてます。先輩は里に帰ってください。」
堪忍袋の緒が切れた。むかいはカカシに宣戦布告のように言葉を叩き付けた。こんな腑抜けはいらない、と厳しく言い捨てる。
「どうします。」
「嫌だ、イルカはオレが守る。」
「本当ですね、もう嫉妬で馬鹿な事はしませんね。」
こくりと頷きカカシは大きくひと呼吸した。その顔はいつもの冷静な、上忍はたけカカシに戻っていた。
安心しました、とむかいが心からの笑顔をカカシに向けた。また昔のようにのろけるカカシを見たかったから。
だから早く帰るんです、恋人同士として手を繋いで。
―オレはイルカの泣き顔も、泣き声も、知らなかった。
ああ、泣き出す手前の顔で帰宅しても放って置かれた俺は知らん振りして寝てたんだっけ。あれは卒業生か友人が任務で死んだ時だ、何回か遅く帰宅して。
この子の時もそうだった、風呂場で泣いてた気配だけ知ってる。別れる直前、あの晩を最後にイルカの部屋に行かなくなって数日後に別れを告げて。
イルカが去ってやっと気付いた、オレが弱ってた時には必ず側にいた事を。イルカだってそうして欲しかった筈だ、俺は大事な事にいつも後から気付くんだ。
イルカの無償の愛も。自分から手放してしまった。
こうして抱いてやっても水平線の彼方に流れて行ったイルカの心には、もう二度と寄り添えない。
俺は。
愚か者―。
イルカをぎゅうときつく抱き締めて、再度泣いてもいいんだよと言いながら赤ん坊にするように背中を叩いてやる。
それでもイルカの嗚咽はひっそりと、カカシの服を掴んで押し付けられた胸に温かな涙を吸わせるだけだった。
とんとんと刻むリズムがやがてイルカを眠りに誘う。はあと息を吐いて鼻を啜る音が何度か聞こえ、静かになったと思えばイルカの頭が傾き出した。覗き込むと瞼は瞑られ意識も飛ぶ寸前だった。
このまま眠ってしまうのだろう、記憶もゆっくり出てくれるといいが。
カカシは寝やすいようにイルカを抱き直し、息が規則正しく聞こえるまでじっと待っていた。そしてゆっくりとイルカの身体を布団に横たえ、毛布を肩まで掛けて脇で寝姿を眺める。
「オレは、イルカの中でどんな存在だったんだろうね。」
イルカの微かな寝息に合わせて上下する布団に頭を乗せて、カカシもゆっくりと目を瞑った。
ぴくりと身体を引きつらせ、イルカが絞るような低い声を出した。
飛び起きたカカシは点けたままの天井の照明に目をしばたたかせ、一瞬のちにはっと自分の状況を思い出してイルカの顔を覗き込んだ。
「イルカ、どうしたの。」
眠りの中で何があったのか、うなされながらイルカはしきりに誰かの名前を呼んでいる。――先生若しくは――さん。
耳を口元に寄せたが聞き取れない。
カカシは町田と名乗っていた女を思い出し、イルカの肩を力の限り掴んで叫んでいた。
「あんな女を思い出すな、名前を呼ぶな!」
途端にばん、と突き飛ばされカカシは台所まで飛んでいた。
「私情は挟まないでいただけませんか、先輩。」
床に打ち付けた身体を擦りながら起こすと、息を切らせたむかいがイルカを庇うようにしてカカシにクナイを向けていた。
「青山さんから連絡をもらって急いで来たんですけどね、」
はあはあと肩で息を継ぎながら、崩れるようにむかいは座り込んだ。振り返り額に人さし指を当てると、うなされていたイルカはすうと何事もなかったように眠りについた。
「あ、ああ…。」
カカシは頭を抱えて蹲った。むかいが止めなければ自分はイルカにもっと酷い事をしていた、とカカシの胸が痛む。
「貴方こそ事実を受け止めてくださいよ。」
冷ややかなむかいにカカシは項垂れた。
返す言葉もない。
「うみの中忍の事、愛してるんでしょう?」
え、とカカシが顔を上げてむかいを見れば、苦笑でカカシに手を差し伸べる。その手を取り立ち上がったカカシをイルカの側に座らせ、むかいはすやすやと眠るイルカの手をカカシに握らせた。
「先に任務を遂行する事。それからなら痴話喧嘩でも何でも好きにしろ、と綱手様が仰ってました。」
兎に角、イルカは必ず連れ帰れ。
「イルカはオレとは一緒に帰らない。お前が連れて行ってくれ。」
「うみの中忍は今も先輩を愛しているんですよ、見れば判ります。先輩だってうみの中忍を愛しているでしょう、やり直す気はないんですか?」
むかいが真剣な顔で、カカシの正面に正座し詰め寄る。
「まさか、イルカはオレを切り捨てて女と結婚する気だった。」
「それは先輩との記憶がなかったからですよ、仕方ないでしょう。」
くそめんどくせえ、とむかいは上目使いにカカシを睨んだ。この期に及んで何を言い訳として並べ立てやがる。
「もういいです、うみの中忍には俺が付いてます。先輩は里に帰ってください。」
堪忍袋の緒が切れた。むかいはカカシに宣戦布告のように言葉を叩き付けた。こんな腑抜けはいらない、と厳しく言い捨てる。
「どうします。」
「嫌だ、イルカはオレが守る。」
「本当ですね、もう嫉妬で馬鹿な事はしませんね。」
こくりと頷きカカシは大きくひと呼吸した。その顔はいつもの冷静な、上忍はたけカカシに戻っていた。
安心しました、とむかいが心からの笑顔をカカシに向けた。また昔のようにのろけるカカシを見たかったから。
だから早く帰るんです、恋人同士として手を繋いで。
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