七
開発会社の社員は、今日も何やら思惑ありげにイルカを誘った。
最近はイルカの部屋に上がり込み、手土産の酒と摘まみを広げて森村も酒宴に呼んでいる。年齢もイルカと森村の中間で、異年齢でも交わされる会話はそれなりに楽しい。
だが今回とうとう彼は、職人達の作った物を百貨店に置きたいから仲介してくれと二人に持ち掛けた。住宅や土地の斡旋だけではなく実は百貨店も経営する会社で、昇進が掛かるのだと泣き落としさえ厭わない。
確かにこの町にも利益がもたらされるだろう、だが欲を出し破綻した例も火の国にはあったから、イルカは仲介業の真似などしないと決して頷かない。皆は今のままで満足しているし、変わる時はどう止めたところで変わってしまうものだ。
「ご自分でお話になればいいでしょう。」
自然と機嫌の悪い顔になるが、社員はそんな対応には慣れているらしくにこりと笑って返してくる。
「以前の不審者容疑を考えれば、僕なんか首をはねられるでしょう。」
「だからといって、私は皆さんに話をする気はありません。」
居住まいを正し、イルカはもう持ち掛けるなと出された書類を前に押しやった。森村も頷く。
「新しい時代はもう少し、一世代先だな。ま、顔を繋ぐのは悪い事じゃねえが今は駄目だな。」
頑固ですね、と社員は肩を落として積み上げた書類を鞄にしまった。
「でも貴方が個人的に訪れる事は、皆さんも咎めないでしょう。」
イルカは誰でも懐に入れてしまう、それはかつての記憶に拘わらず。
そうしてイルカの部屋が皆には居心地よくなり、結局引っ越しもままならない。
急ぐ事もないし、と流されるのも相変わらずなのだ。
カカシはほぼ一週間おきにイルカの日記を取りに来て、任務の都合で次は判らない、と必ず告げる。任務の内容は判らないが忍びは大変なんだなあ、とイルカは時折辛そうに身体を引き摺るカカシを見送っていた。
別の会社のセールスが訪れては、イルカにワンルームマンションを勧める。大手の開発会社と親しいと何処から聞いてきたのか、イルカに取り入って町に繋ぎを作りたいと熱心に優良物件を勧める。
玄関から全て見渡せるイルカの部屋の窓は木枠だし、玄関ドアに至ってはノブを一度持ち上げてゆっくり押し引きしないと閉まらないし開かない。
そして内鍵が番号式の南京錠だと見たセールスマンは、毎週末にはポストに写真付きの広告を入れる始末だった。
「荒波先生、どなたか家をお訪ねになりませんでしたか。」
年季の入った作業服の用務員がそっと聞いてきた。佐東五郎、出身の村では砂糖と同じイントネーションで甘い語感が塩田と対でからかわれる老人は、半世紀前の学校創立時から勤めている。
「えと、マンションのセールスなら週変わりで取っ替えひっ替え来ますが。」
「いいえ、セールスとは雰囲気が違うんですよ。」
何となくですけどね、と全幅の信頼を寄せるに値する人生の大先輩の言葉に、イルカの顔が曇った。
俺は何かのカモにされているのか、金もないしゆすられるネタも…多分ない筈だ。
「荒波先生には心当たりはないのですね。」
首を捻って思い出そうとしたが、失恋した相手は結婚するからと金持ちに鞍替えした後の連絡先も知らないし、国を出る時は誰とも揉めた覚えがない。寧ろあっさりしすぎて寂しかった位だ。
本当に?
イルカの記憶はえーと、と探って出てくるものばかりだ。何故瞬時に明確に出てこない。
「先生、何か。」
「解りません。どうしたらいいんでしょうか佐東さん。」
「こちらでも気を付けておりますから、荒波先生は無闇に人を信用しないようにしてくださいよ。」
付け入る隙を与えすぎだと笑われた。だからセールスマンは来るのだろうとも怒られた。
親身に心配されて嬉しい。そんな風に怒ってくれた大事な人は、もういない。
帰宅の道で、イルカの足が止まった。
誰が怒ってくれたのだろう、と思い出せないまま薄暗い街灯を見上げた。
せんせ、と聞こえたのは空耳か。
木枯らしが民家の音を拾ったのか、やけにテレビの中の笑いが耳についた。
確かに俺は隙があるんだろうな。面倒事が随分増えてきた気がする。
―巻き込まれても黙って一人で解決するあんたは大馬鹿だ。
忙しいその人に知られず解決しようと、でも結局事後に発覚しては叱られて。
誰だったんだろう、何についてだったんだろう。
週末の疲労はピークで、イルカは緩慢な動作で冷えた弁当をインスタントの味噌汁で喉に通す。胸のつかえはそれでも流れず、息苦しい。
日記が上手く纏まらない。ただ日々を書き連ねればいいだけなのに、何かが気になって。
「見落としが、」
呟いた直後に眠気が襲い、それが術の作用とも知らずイルカは全てを忘れて眠りについた。
開発会社の社員は、今日も何やら思惑ありげにイルカを誘った。
最近はイルカの部屋に上がり込み、手土産の酒と摘まみを広げて森村も酒宴に呼んでいる。年齢もイルカと森村の中間で、異年齢でも交わされる会話はそれなりに楽しい。
だが今回とうとう彼は、職人達の作った物を百貨店に置きたいから仲介してくれと二人に持ち掛けた。住宅や土地の斡旋だけではなく実は百貨店も経営する会社で、昇進が掛かるのだと泣き落としさえ厭わない。
確かにこの町にも利益がもたらされるだろう、だが欲を出し破綻した例も火の国にはあったから、イルカは仲介業の真似などしないと決して頷かない。皆は今のままで満足しているし、変わる時はどう止めたところで変わってしまうものだ。
「ご自分でお話になればいいでしょう。」
自然と機嫌の悪い顔になるが、社員はそんな対応には慣れているらしくにこりと笑って返してくる。
「以前の不審者容疑を考えれば、僕なんか首をはねられるでしょう。」
「だからといって、私は皆さんに話をする気はありません。」
居住まいを正し、イルカはもう持ち掛けるなと出された書類を前に押しやった。森村も頷く。
「新しい時代はもう少し、一世代先だな。ま、顔を繋ぐのは悪い事じゃねえが今は駄目だな。」
頑固ですね、と社員は肩を落として積み上げた書類を鞄にしまった。
「でも貴方が個人的に訪れる事は、皆さんも咎めないでしょう。」
イルカは誰でも懐に入れてしまう、それはかつての記憶に拘わらず。
そうしてイルカの部屋が皆には居心地よくなり、結局引っ越しもままならない。
急ぐ事もないし、と流されるのも相変わらずなのだ。
カカシはほぼ一週間おきにイルカの日記を取りに来て、任務の都合で次は判らない、と必ず告げる。任務の内容は判らないが忍びは大変なんだなあ、とイルカは時折辛そうに身体を引き摺るカカシを見送っていた。
別の会社のセールスが訪れては、イルカにワンルームマンションを勧める。大手の開発会社と親しいと何処から聞いてきたのか、イルカに取り入って町に繋ぎを作りたいと熱心に優良物件を勧める。
玄関から全て見渡せるイルカの部屋の窓は木枠だし、玄関ドアに至ってはノブを一度持ち上げてゆっくり押し引きしないと閉まらないし開かない。
そして内鍵が番号式の南京錠だと見たセールスマンは、毎週末にはポストに写真付きの広告を入れる始末だった。
「荒波先生、どなたか家をお訪ねになりませんでしたか。」
年季の入った作業服の用務員がそっと聞いてきた。佐東五郎、出身の村では砂糖と同じイントネーションで甘い語感が塩田と対でからかわれる老人は、半世紀前の学校創立時から勤めている。
「えと、マンションのセールスなら週変わりで取っ替えひっ替え来ますが。」
「いいえ、セールスとは雰囲気が違うんですよ。」
何となくですけどね、と全幅の信頼を寄せるに値する人生の大先輩の言葉に、イルカの顔が曇った。
俺は何かのカモにされているのか、金もないしゆすられるネタも…多分ない筈だ。
「荒波先生には心当たりはないのですね。」
首を捻って思い出そうとしたが、失恋した相手は結婚するからと金持ちに鞍替えした後の連絡先も知らないし、国を出る時は誰とも揉めた覚えがない。寧ろあっさりしすぎて寂しかった位だ。
本当に?
イルカの記憶はえーと、と探って出てくるものばかりだ。何故瞬時に明確に出てこない。
「先生、何か。」
「解りません。どうしたらいいんでしょうか佐東さん。」
「こちらでも気を付けておりますから、荒波先生は無闇に人を信用しないようにしてくださいよ。」
付け入る隙を与えすぎだと笑われた。だからセールスマンは来るのだろうとも怒られた。
親身に心配されて嬉しい。そんな風に怒ってくれた大事な人は、もういない。
帰宅の道で、イルカの足が止まった。
誰が怒ってくれたのだろう、と思い出せないまま薄暗い街灯を見上げた。
せんせ、と聞こえたのは空耳か。
木枯らしが民家の音を拾ったのか、やけにテレビの中の笑いが耳についた。
確かに俺は隙があるんだろうな。面倒事が随分増えてきた気がする。
―巻き込まれても黙って一人で解決するあんたは大馬鹿だ。
忙しいその人に知られず解決しようと、でも結局事後に発覚しては叱られて。
誰だったんだろう、何についてだったんだろう。
週末の疲労はピークで、イルカは緩慢な動作で冷えた弁当をインスタントの味噌汁で喉に通す。胸のつかえはそれでも流れず、息苦しい。
日記が上手く纏まらない。ただ日々を書き連ねればいいだけなのに、何かが気になって。
「見落としが、」
呟いた直後に眠気が襲い、それが術の作用とも知らずイルカは全てを忘れて眠りについた。
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