四
放課後の職員室で、イルカは前任者の残した生徒の資料を捲っていた。
知らない名前を見付けて手が止まる。
「これ、」
思わず漏れた声に、同じアパートに住む森村守という年配の男が寄ってきた。酔うと寂しいと泣き出す、世話好きなバツイチだ。
「この子はもういません。」
「あの、殺されたって子ですか。」
「しっ、まだ皆傷が癒えてないんですから此方へ。」
促されて隅の応接セットに移動する。
「折を見て話すつもりでしたが、やはり先生の耳にも入りましたよね。」
資料には第三子、長女とあった。森村はその兄の次男を受け持っていたのだと言う。
「長男は火の国の学校に通っていたと聞いています。荒波先生はご存知ありませんか。」
「国土が広いので、学校も幾つか点在しています。私は残念ながら。」
植え付けられた記憶に依れば長男と同じ学年を持っていた筈だが、全く心当たりはない。それどころか生徒達の記憶が曖昧だ。まだ卒業させて半年じゃないか、失恋でそれすら忘れてしまったのだろうか。
「そうなんですか。」
思い出として知りたかった、と残念そうだ。
「その、私の前の先生はどうしてお辞めになったんですか。」
知らず小声になってしまう。
森村も更に小声で前のめりにイルカに寄る。
「ショックが大きくて、耐えられないと田舎に帰られました。」
何故そこで生徒を守ってやろうと思わなかったのだろうか、とイルカは怒りが湧いたが思い直す。
自分だって嫌な事から逃げて此処にいるんじゃないか、きっとその先生も思い入れがありすぎて辛かったから逃げたんだ。
俺だってあいつには―え、思い入れが、誰に。
また一瞬ののちには忘れてしまったが、イルカは大事な誰かを思い出していた。命を掛けた、生徒を一人。
これで終わりだと、静かに森村が立ち上がった。
「荒波先生の生徒達はまだ小さいから、一人一人気にしてやってくださいね。」
ぽんと肩を叩かれ、イルカは気合いを入れるように大きく頷いた。
家庭訪問をしたい、もっと子ども達を知って心の傷があれば癒してやりたい。
持ち掛ければ、校長は快く了承してくれた。
各家庭に配布した手紙の返事で訪問リストを作り、イルカは家庭訪問の手筈を整えた。
夜半にふと日記の束を見ると、既に十日分は溜まっていた。
あの忍びが来ない。そりゃあ約束はしてないし、あっちにも都合があるだろうけど。
「さて、今日の分を書いとくか。」
特に何も起こらず、平和な日々が続いている。のどかで心も落ち着いて、イルカは失恋なんて嘘のように思えた。
家庭訪問は順調に進む。大抵は買い物の立ち話の延長の雑談で時間切れとなってしまったが、各家庭の普段の様子が解って収穫に満足しながら、日を掛けて回っていく。
報告の日記と自分用の資料と、同じ内容を書いて纏めるのには時間が掛かった。書きながら、今後の指導についての注意点も思い付くまま書き出していく。
やはりイルカは根っからの教師なのだ、毎日が楽しくて仕方ない。
そうしてイルカはカカシを思い出す事もなく、全ての家庭訪問を終えた。
気付けば前回の日記の回収から、一ヶ月がたっていた。
「溜まったな。いいのかな、定期便とは言われてないけど一ヶ月もたってるし。」
他の忍びでは駄目なのだろうかとも思うが、イルカはまたあの忍びが来る事を期待していた。無愛想で無駄な話もせず、それなのに他人を惹き付ける不思議な魅力がある。
その時とん、と何かが落ちたか置いたような音がした。イルカの五感は忍術とリンクしておおよそ封じられていたが、それでも一般人よりは鋭かった。イルカは勘が良すぎると同僚に指摘されたが、格闘の修行の結果だと思い込んでいるのだった。
「あ、来た。」
カカシのたてる足音は、以前イルカの部屋を訪ねる際のノック代わりだった。玄関の出入りよりもいかにもって感じじゃない、と一人で拘るカカシにイルカは笑って、窓の鍵を掛けない癖が付いてしまった。
から、と遠慮がちに窓を開けてカカシは肩からするりと部屋に入ってきた。まるで密会か夜這いのように、息を潜めて。
「鉄、いや血、ですね。」
イルカは笑顔を凍らせてカカシを見上げた。
既視感。
二人の時間が止まる。
動き出したのはイルカが先だった。ちゃぶ台に手を付き、反動で立ち上がる。一歩前に出るとカカシが手で制止した。
「怪我はしていない。返り血が付いているだけだ。」
返り血、という言葉に反応したイルカを見てカカシの口布の下で歪んだ笑いが漏れた。
「くく、怖いか。」
「ええそりゃ、俺は、忍びじゃないですから。」
イルカは精一杯虚勢を張るが、戸惑いが全身に表れている。
あんただって血にまみれていたじゃないか、何故オレをそんな目で見る。
放課後の職員室で、イルカは前任者の残した生徒の資料を捲っていた。
知らない名前を見付けて手が止まる。
「これ、」
思わず漏れた声に、同じアパートに住む森村守という年配の男が寄ってきた。酔うと寂しいと泣き出す、世話好きなバツイチだ。
「この子はもういません。」
「あの、殺されたって子ですか。」
「しっ、まだ皆傷が癒えてないんですから此方へ。」
促されて隅の応接セットに移動する。
「折を見て話すつもりでしたが、やはり先生の耳にも入りましたよね。」
資料には第三子、長女とあった。森村はその兄の次男を受け持っていたのだと言う。
「長男は火の国の学校に通っていたと聞いています。荒波先生はご存知ありませんか。」
「国土が広いので、学校も幾つか点在しています。私は残念ながら。」
植え付けられた記憶に依れば長男と同じ学年を持っていた筈だが、全く心当たりはない。それどころか生徒達の記憶が曖昧だ。まだ卒業させて半年じゃないか、失恋でそれすら忘れてしまったのだろうか。
「そうなんですか。」
思い出として知りたかった、と残念そうだ。
「その、私の前の先生はどうしてお辞めになったんですか。」
知らず小声になってしまう。
森村も更に小声で前のめりにイルカに寄る。
「ショックが大きくて、耐えられないと田舎に帰られました。」
何故そこで生徒を守ってやろうと思わなかったのだろうか、とイルカは怒りが湧いたが思い直す。
自分だって嫌な事から逃げて此処にいるんじゃないか、きっとその先生も思い入れがありすぎて辛かったから逃げたんだ。
俺だってあいつには―え、思い入れが、誰に。
また一瞬ののちには忘れてしまったが、イルカは大事な誰かを思い出していた。命を掛けた、生徒を一人。
これで終わりだと、静かに森村が立ち上がった。
「荒波先生の生徒達はまだ小さいから、一人一人気にしてやってくださいね。」
ぽんと肩を叩かれ、イルカは気合いを入れるように大きく頷いた。
家庭訪問をしたい、もっと子ども達を知って心の傷があれば癒してやりたい。
持ち掛ければ、校長は快く了承してくれた。
各家庭に配布した手紙の返事で訪問リストを作り、イルカは家庭訪問の手筈を整えた。
夜半にふと日記の束を見ると、既に十日分は溜まっていた。
あの忍びが来ない。そりゃあ約束はしてないし、あっちにも都合があるだろうけど。
「さて、今日の分を書いとくか。」
特に何も起こらず、平和な日々が続いている。のどかで心も落ち着いて、イルカは失恋なんて嘘のように思えた。
家庭訪問は順調に進む。大抵は買い物の立ち話の延長の雑談で時間切れとなってしまったが、各家庭の普段の様子が解って収穫に満足しながら、日を掛けて回っていく。
報告の日記と自分用の資料と、同じ内容を書いて纏めるのには時間が掛かった。書きながら、今後の指導についての注意点も思い付くまま書き出していく。
やはりイルカは根っからの教師なのだ、毎日が楽しくて仕方ない。
そうしてイルカはカカシを思い出す事もなく、全ての家庭訪問を終えた。
気付けば前回の日記の回収から、一ヶ月がたっていた。
「溜まったな。いいのかな、定期便とは言われてないけど一ヶ月もたってるし。」
他の忍びでは駄目なのだろうかとも思うが、イルカはまたあの忍びが来る事を期待していた。無愛想で無駄な話もせず、それなのに他人を惹き付ける不思議な魅力がある。
その時とん、と何かが落ちたか置いたような音がした。イルカの五感は忍術とリンクしておおよそ封じられていたが、それでも一般人よりは鋭かった。イルカは勘が良すぎると同僚に指摘されたが、格闘の修行の結果だと思い込んでいるのだった。
「あ、来た。」
カカシのたてる足音は、以前イルカの部屋を訪ねる際のノック代わりだった。玄関の出入りよりもいかにもって感じじゃない、と一人で拘るカカシにイルカは笑って、窓の鍵を掛けない癖が付いてしまった。
から、と遠慮がちに窓を開けてカカシは肩からするりと部屋に入ってきた。まるで密会か夜這いのように、息を潜めて。
「鉄、いや血、ですね。」
イルカは笑顔を凍らせてカカシを見上げた。
既視感。
二人の時間が止まる。
動き出したのはイルカが先だった。ちゃぶ台に手を付き、反動で立ち上がる。一歩前に出るとカカシが手で制止した。
「怪我はしていない。返り血が付いているだけだ。」
返り血、という言葉に反応したイルカを見てカカシの口布の下で歪んだ笑いが漏れた。
「くく、怖いか。」
「ええそりゃ、俺は、忍びじゃないですから。」
イルカは精一杯虚勢を張るが、戸惑いが全身に表れている。
あんただって血にまみれていたじゃないか、何故オレをそんな目で見る。
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