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十六

仰け反りそうになって慌てたが、とんと背中に当たったカカシの広い胸に受け止められた。…ああ温かい。
ふと見ればイルカの肩に置かれた手の、手首が大分袖から覗いている。
「そういえば私服はお持ちではないのですか。」
「この町では忍び装束ではいられないから青山の服を借りたんですが、やっぱり小さかったですね。」
と言うカカシは少し窮屈そうに腕を曲げた。
「あの、お嫌でなければ私の服に着替えてください。」
ほんの少しの身長差だからゆったりした部屋着などはちょうどいいと、任務帰りにふらりと立ち寄ったカカシによく服を貸してやった。イルカの物が使いたいと歯ブラシ以外は私物を持ち込まなかったのは、いつ訪れるか解らない別れを想定していたのだろうか。ぐるぐる巡る負の思考。
「…はい、破りそうなんでありがたいです。」
相変わらず些細な所にもよく気が付く、とカカシは嬉しそうに目を細めた。―いとおしいイルカ。
あそこにとイルカの目が場所を教えると、カカシは迷わず箪笥から上下の衣を取り出した。
以前は上衣を肩から落として新たな服に腕を通す事もイルカがしてやっていた。けれど今はイルカの身体は動かず着替えを見ているしかない。
前開きのシャツの片袖には腕を通したがもう片方に通し損なって、カカシは情けない顔でイルカを振り返った。
「何でできないんですか。今まで一人でどうやって…ああすみません、お一人じゃないのでしょうか。」
右と左を間違えて両腕を通してみたら襟元が尻にあった、なんて小さな子のようにもたもたするカカシを見ていられずに手を貸してやっていた。今は代わりの誰かを見付けたのだろうか。
「だからボタンの物は着ないんです。」
ずっと一人だよ、とカカシはイルカの目を見た。そうなんですか、と呟いてイルカはカカシを手招きする。片袖を泳がせながら布団の脇に膝を着いたカカシに、手を入れればいいように袖先を持って伸ばしてやると黙って腕を通しボタンを止めた。
「練習してください。」
これからずっと、もしも誰かを側に置く事をカカシが望まないならば。
「したく…ないです。」
―あんたにやって欲しいから。
言えない言葉を飲み込んで、カカシは小さく微笑んだ。
「イルカ先生、トイレはどうしますか。」
「すみません…行きたいんですが、まだ足が動かないんで座らせてくだされば。」
恥ずかしそうに赤らめた顔は以前と変わらないが、カカシが触れると途端に心を閉ざし感情が読めない。それでもイルカがいる、この事実がカカシにはただ嬉しいのだ。
青山に殴られて正気を取り戻した後に、初めてイルカの任務の詳細を聞いた。イルカが死んでもいい捨て駒だった事、例え無事でも里には戻れない筈だった事。
綱手はイルカの帰還を切望するが、義理堅いイルカはこの町が彼を必要とする限りは帰らないとだろう、とひかりに溢したらしい。
カカシもそうだろうと頷いた。ましてや自分がイルカを捨てたから、全てを忘れる為に任務を引き受けたのだ。此処で家庭を築き骨を埋める決意だと、任務内容を誤魔化しながら同僚に語ったという話は本音だったろう。
「はたけ上忍?」
トイレから戻って布団に寝かせたイルカを凝視していたらしい。慌てて視線を逸らし、何か食べ物を買ってくるとカカシは逃げるように外に出た。
知らない町を当てもなく歩く。日記の受け取りはいつも深夜でイルカ以外は知る必要もなく、改めて見る忍びのいない町の穏やかな雰囲気が物珍しい。
「おや、あんた初めて見る顔だね。でもその服、ナガレちゃんが着てたのと同じじゃないかい。」
惣菜を見ていると話し掛けられ、カカシははいと素直に頷いて答える。
「以前の仕事仲間です。突然来たので服を借りました。」
「へえ、あんたいい男だねえ。ナガレちゃんの方がもっといい男だけどさ。」
豪快に笑うおかみさんの後ろから、ナガレという言葉を聞き付け子どもが走り出してきた。
「ナガレっち来てんの?」
ぼうっと立つカカシに何だぁとあからさまに不満げな顔を見せた子は、担任の知り合いだと聞くとカカシに纏わりついて質問攻めにする。
ナガレっち、と呼ぶ名前にカカシの心が沈む。質問に適当に返しながら、半年の空白がこの先も永遠に続いて自分がイルカの記憶から消え去る恐怖に足がすくんだ。
「あれ、桔梗ちゃんはいないの?」
あの二人結婚するみたいだったけど、おじさんは会わなかったの。
イルカとしての記憶がない時だったとしても、それはカカシを完全に打ちのめすには充分な言葉だった。
「そうそう、ナガレちゃんに何て口説いたか聞いといてね。」
どうやってイルカの部屋に戻ったのかは覚えていない。カカシは惣菜を手に持ったまま、眠るイルカを暫く見詰めていた。
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