10



入浴後の外出は無謀だったとイルカは後悔した。この地方は火の国より遥かに冬が早そうで、真っ暗な中に息が白い。
「あーっ荒波先生だ、先生暇なの?」
男四人の宴会で食糧を食べ尽くされて夕飯の買い物に出たイルカは、店の手伝いをするクラスの生徒に捕まった。流石低学年、教師を敬うなんて気持ちはまるでない。イルカも線引きをするつもりもなく、おぉと手を上げて笑う。
「暇じゃないぞ、洗濯の終わり待ちに買い物だ。」
「えー今から干しても乾かないよ。」
「そうだな、でも先生は部屋に吊るしてるから時間は関係ないんだ。」
だから女の子を紹介するって言うのに、と袋にコロッケを一つおまけするその子の母にイルカは苦笑いをする。
「母さん、ナガレっちは桔梗ちゃんとデキてっから大丈夫だって。」
「こら、俺なんか相手じゃ町田先生に失礼だぞ。」
生徒がぷうと頬を膨らませた。
「えー桔梗ちゃんさあ、ナガレっちのうちを教えてって聞いてきたんだよ。おうちデートじゃなかったの?」
「こら、あんたが一番失礼よ。ごめんなさい、でもね桔梗さんが来たのは本当よ。会わなかったの?」
イルカは風呂に入っていた時かと店先の時計を見た。すみません、と思わず謝る。
何か学校関係の用かと心配になり、逆にイルカが町田の家を聞いた。三分も掛からず着いたアパートは女性らしく小綺麗な鉄筋作りで、だが隣はあの強盗事件の家だった。
表札を確かめ呼び鈴を押す。内側のチェーンを付けたまま顔を覗かせた町田はイルカを見て、慌ててドアを全開にした。
「こんばんは荒波先生。あの、何かありましたか。」
「あ、いや町田先生が俺のうちを尋ねたって聞いて。」
イルカが惣菜の袋を持ち上げたが、それを見ても町田は首を傾げる。
「いえ、あたしは一日友達の家に行ってて今帰ってきたところです。」
確かにおしゃれな服を着ている。だがあの親子が嘘をついたとは思えず、イルカは眉をしかめた。
「あたし何処にでもいる顔だから、誰かと間違えたのかも。」
まさか、とイルカは納得がいかないが町田が気にする様子はなく、また自分に実害がない為にそれ以上の追及を止めた。
「荒波先生もこれからご飯ですか。すぐ作れるので食べていきませんか?」
思いがけない誘いをイルカは断るが、主婦となった友達が鍋の食材を一式土産に持たせたからと、町田はイルカの腕を引いて部屋に上げてしまった。
「昔からあたしが心配らしくて、今日も毎日何を食べてるかとか彼氏はできたかとか、これも誰かと食べなさいって言うの。」
ハート模様の小さなテーブルに電気式の鍋を置き、町田がイルカの為に食事の仕度をする。
こんな感じいいな、と自然に笑みが出て町田も他人がいるのは嬉しいと笑っている。
「一人じゃないって安心しますよね。」
隣があんな事になったし。
俯いた町田の小さな肩を、抱いて支えたい―と思った自分に動揺して、イルカは顔を赤く染めた。
「あ、あの引っ越したらいかがですか。」
「簡単にはできませんよ、此処は気に入ってますし。」
明るくイルカに箸を渡し大丈夫、と力瘤を作った町田の力になれないかと鍋をつつきながらも考える。
「では、心細くなったら荒波先生のおうちに伺っても宜しいでしょうか。」
町田の突然の提案に、イルカはすぐに答えられなかった。
町田は容姿も性格も好みだ、喜ぶべき展開ではないか。だけど。
あの忍びがいつ来るか判らない、町田と一緒にいるところを彼には見られたくない。女性の痕跡を残しておきたくない。
瞬時に頭を巡ったそんな思いがイルカを躊躇わせる。
「時々俺が来ましょうか。」
間をおいたイルカの返事に何を嗅ぎとったか、町田ははいと頷いたが会話は続かなくなった。
「いやその、汚ない所で、隙間だらけで寒いし。」
取り繕うイルカに笑った町田は、じゃあ週末はご飯を食べに来てくださいと指切りをさせた。

部屋を横切る紐がたわむ程洗濯物が掛かった中、イルカは町田とのやり取りを思い出していた。
何故素直に部屋に呼んでやれなかったのか。何故あの男を気にしてしまうのか。
突然からりと窓が開き、イルカは身を守る為に片膝を着き腕を身体の前でクロスさせた。
「おや荒波先生、流石じゃない。」
カカシがベランダから入ろうとせずに立っていた。
「女、抱いたんですか。」
刺々しい声がイルカを責めるように聞こえた。
「ふざけんな、ただ一緒に飯を喰っただけだ、あんたじゃないんだから。」
自分でも激昂する理由が解らないまま、イルカはカカシを睨み返した。
「あんたじゃない、って…オレを知らないくせに。」
「いや…そんなつもりじゃ。」
俺は何を言っちまった―。
カカシが猫のようにしなやかに、まっすぐ歩いてきて。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。