イルカ先生、ねえ先生ちょっとどうにかしてよぉ。と甲高い声がイルカの背中に掛かった。
ああもう、こっちだって朝は忙しいんだから他の人に声を掛けるか俺でなきゃいけないなら帰りにしてくれ。
とは眉を寄せて思うものの、くるりと振り返ったイルカは爽やかな笑顔でおはようございますと声の主に挨拶をした。
担任ではないが生徒の親だ。何かにつけて学校に文句を言ってくる親が増えてきた為に愛想よくしておかないと不味いと、教師達は結構ビクビクしながら街を歩いているのだ。
このお母さんの名前はなんだっけ、体格の良さで記憶しているが確か不動産屋をしながら自分でも小さなマンションを経営している未亡人だった筈。
「はい、何かありましたか多々良さん。」
なんとか思い出した名前を呼ぶ。人間て名前を呼ばれると機嫌が良くなるんだって、個の認識が嬉しいかららしい──と昨日聞いた話をイルカは実践してみたのだ。
「ええ先月三階に越してきた忍者さんがね、ごみを出す日を守ってくれないの。」
多々良さんも少し態度が柔らかくなる。指差した先の集積所には収集に遅れたごみ袋がぽつんと一つ。
「おまけに燃えるのも燃えないのも一緒に入れててねえ。」
と多々良さんは困っていた。
イルカはなんだそれ、と少し呆れる。正直それは俺に言うことなのだろうかと思いながら、多々良さんにどの部屋の何という名前の人か聞いた。
「えーとね、何だったかしら。……あ、イルカ先生のうみのの反対みたいな名前だったかも。」
海の反対ってことか、なら山田や岡野やそんなのだろうか? 聞いたことはないな。
「すみません、俺もアカデミーに遅刻しそうなのでその件は預かりって事でお願いできませんか。」
「あらそうよね、ごめんなさい。頼むわよ、やっぱり忍者さんってちょっと近寄り難いじゃない。」
まあそうなんだけどさ。
イルカを見掛ければ何かと声を掛ける一般人の多さよ。イルカは自分の立場に疑問を抱きながら少し速足でアカデミーに向かった。
職員室で近所に住む何人かに、最近あのマンションの三階に越してきた忍びがいたかと聞き回った。しかし一般人のマンションは忍びには緊急避難所として使われる事が多い為に、忍び同士でもまず知る者はいないのだった。
「それがどうした?」
当然の疑問だろう。イルカは理由を説明し、生徒の親だからなぁと溜息をついた。その生徒の担任がすまないと頭を下げる。
「イルカの的確な判断でオレの首が助かったよ。あの人は何でもかんでも乗り込んでくるからさ。」
あー今流行り始めてるからなー、と頭を抱えるのはやはり心当たりのあるクラスの担任だ。何故か円陣を組んだ形で悩む教師達は少し滑稽に見えた。
「多々良さんには帰りに寄るって言っちゃったので、俺が行きますね。その方にお会いできたら明日報告します。」
担任はほっとして宜しくとイルカの肩を叩いた。

約束通り、夕暮れに多々良夫人を訪ねてもう一度詳細を聞く。
一度本人から名乗られたがすぐ忘れてしまった名前は、相変わらず思い出せないらしい。契約書は里が契約している為に誰かは解らない。ではどういう容貌かと聞けば、鼻から下を隠して片目も隠していて顔は解らないけどイルカと変わらない位の若さだろうと言う。老けて見える自分と同じくらいなら実際はいくつか年上だろう。そして里の契約ならば上忍だと思われる。 ただ期間は不明だという事で、もしかしたらこのまま居着くのかもしれないとイルカは思った。
寝てるみたい、と多々良さんは言う。照明はつけっぱなしだしエアコンの室外機も稼働しているから。
「じゃあ様子を見てきます。それで、ごみの話だけで宜しいんですか?」
「ええまあ……でも夜中に帰ってきて大きな音を立ててるみたいでね。お隣りと下の方が寝られないって仰るのよ。それを話したら逆ギレされないかって不安なのよ。」
そりゃあやべえかも、とイルカの背に緊張が走る。明らかに外回りの特上か上忍だ。まずは俺の話を聞いてくれるといいんだけど。
「とにかく、話をしてきます。俺の心配はしないで下さい。大丈夫です。」
言い切ってしまえばなんとなく大丈夫だと思える。うん、大丈夫。
その部屋の前に立つと、中から薄い気配が感じられた。家の中でも安心できないんだろうか、俺なんか気配だだ漏れで寛いじゃうんだけどな。
インターホンはあるけれど、眠っていたらその音は煩わしいだろう。
イルカは鉄のドアを指の関節で軽く叩いた。コンコン、と小さく共鳴した音は中に届いているだろうか。
暫く待つ。気配は動かず返事もない。
時間も勿体ないからインターホンを押した。なかなかに大きな音が中で聞こえて、イルカは焦ってしまった。
「はぁい。」
不機嫌そうな声がした。イルカは一歩あとずさって逃げる準備をする。
内鍵は下ろしてなかったらしい。いきなりノブが回ってドアが開いた。
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