「……なんかいいこと、あったんですか」
昼下がりの上忍待機所。煙草の匂いの滲みついたソファに胡坐をかいて、背凭れに預けた両腕のうえに端正な貌を載せて鼻唄をうたう。そんな男の様子を怪訝に思い、テンゾウは彼の視線を追って、細い雨が滴る窓の外へと眼を向けた。そこには、切なげな、気だるげな。なんとなく気の重くなる雰囲気を纏って、いつもの里の風景がある。
何の変哲もない、そんな景色を見ながら、男はなおも愉しげに鼻唄を奏でている。しきりに頸を捻ったテンゾウはとうとう、男に訊ねたのだった。
「あったっていうか、いままさに楽しんでいるところよ」
テンゾウの胡乱な眼差しをいとも簡単に受け流し、男は口布の下で唇を歪めた。さっぱり意味がわからない。テンゾウは再び、問いを重ねた。
「先輩は、ただ行儀悪くソファに腰かけているだけでしょう。何を愉しんでるんですか」
「わからない?」
ふふ、と、男は湿気を吸ってやや草臥れ気味の銀髪の下で目を撓ませた。
「ほら、あれ、あれ」
顎で示されたのは、窓の下だった。テンゾウがソファ越しに身を乗り出し、視線を落とすと、眼下に薄青の傘の肌が見えた。傘の持ち主が立っているところは、この建物の玄関にあたる場所で、所在無げにくるくると傘を回転させる様子が、誰かを待っているのだと想像させた。
「誰です、」
「俺の恋人」
おそらくカカシの知り合いなのだろうと思われ、なんとなしに訊ねたテンゾウは、男の口から出てきたその言葉に意表をつかれた。
「先輩、いつの間に」
「ん? 結構まえよ。そうねえ、もう半年くらい」
「へえ……」
「気のない返事しないの。おまえも知ってるひとよ。アカデミーの、うみのイルカせんせい」
にっこりと、目だけで微笑むカカシにテンゾウは目を見開いた。
アカデミーに勤めるうみのイルカといえば、木ノ葉にひとりしかいない。熱血教師、人情家、涙もろい、おせっかい。評判は様々だが、総じてお人好しの感がある人物である。何事にも適当で、暖簾に腕押し、糠に釘、そんな諺がぴったりくるこの男、はたけカカシとは、似ても似つかない性格だろう。何よりテンゾウを驚かせたのは、うみのイルカは男ということだ。
「先輩、そういう趣味だったんですか」
「どういう意味」
「女だけが、欲望の対象ではなかったんですね」
「べつに、男だってやることはおんなじじゃない。入れて擦って出せるんなら、性別なんて問わないでしょ」
見境ないな、という言葉を呑み込んで、テンゾウはにっこりとつくり笑いを浮かべた。
「いいですね、待ち合わせでしたか。それは、楽しそうだ」
「そう、待ち合わせの約束、してたの。あのひと、迎えに来てって云ったら、本当に来るんだよ。俺、いつ帰るとか云ってないのに」
「……え、」
「もうね、三時間くらい? あそこでずーっと、俺を待ってるの。犬みたいだよね」
そう云って、嬉しそうに笑声を零すカカシは、頭の螺子が何処かに飛んで行ってしまったのかと思われるほど浮かれていた。
テンゾウは眉を顰めずにはいられない。
「なにしてるんですか。早く行ってあげないと」
「なんで?」
「なんでって。三時間も待ちぼうけ喰わせて、どういうつもりなんですか。イルカさんが可哀相ですよ」
「可哀相だから、いいんでしょ? ちなみにこれから、もう待たなくていいよって云いに行くの」
「は? いまさらですか? どうして。先輩、こんなところにいますけど、任務は明日からの予定でしょう」
「そうね。だから、おまえと呑みに行くことにした」
「はあぁぁ??」
呆れて素っ頓狂な声をあげるテンゾウに、カカシは妖しく光る右目を細めてみせた。
「ねえ、こんだけ待たされてさ、帰っていいよって云われたら、傷付くよね?」
「もちろんです」
「俺さ、あのひとの、そういうときの貌が好きなんだよね。こう、じんわりと、絶望が広がっているような?」
「……意味がわかりません」
「そう?」
カカシはかくんと小首を傾げる。
「道端に咲く、青や赤の紫陽花を、俺は綺麗だとは思わないんだよね。むしろ、雨に打たれて傷んだせいで、しおれて枯れたような色になっている花びらのほうが、手折りたくなるんだよ。わからない? そういうの」
くっ、と喉の奥で嗤うカカシに、テンゾウの躰からは一気に力が抜けた。
「……わかりませんよ」
呟くようなその言葉は、軽い足取りで待機所を出て行く男の背中に向けられた。
もともと癖のある人物だと思っていたが、あれはもはや変人の域に入っている。至極まっとうな感覚をもっているイルカは、カカシと付き合いを続ける限り、しなくてもいい苦労をするに違いない。
カカシの妙な一面を知ってしまったテンゾウは、最早窓の下を覗き込むことはなかったが、暫くして聴こえてきた風船の弾けるような音に、少しだけ相好を崩した。
どうやらイルカは、簡単に手折られるような花ではないらしい。
昼下がりの上忍待機所。煙草の匂いの滲みついたソファに胡坐をかいて、背凭れに預けた両腕のうえに端正な貌を載せて鼻唄をうたう。そんな男の様子を怪訝に思い、テンゾウは彼の視線を追って、細い雨が滴る窓の外へと眼を向けた。そこには、切なげな、気だるげな。なんとなく気の重くなる雰囲気を纏って、いつもの里の風景がある。
何の変哲もない、そんな景色を見ながら、男はなおも愉しげに鼻唄を奏でている。しきりに頸を捻ったテンゾウはとうとう、男に訊ねたのだった。
「あったっていうか、いままさに楽しんでいるところよ」
テンゾウの胡乱な眼差しをいとも簡単に受け流し、男は口布の下で唇を歪めた。さっぱり意味がわからない。テンゾウは再び、問いを重ねた。
「先輩は、ただ行儀悪くソファに腰かけているだけでしょう。何を愉しんでるんですか」
「わからない?」
ふふ、と、男は湿気を吸ってやや草臥れ気味の銀髪の下で目を撓ませた。
「ほら、あれ、あれ」
顎で示されたのは、窓の下だった。テンゾウがソファ越しに身を乗り出し、視線を落とすと、眼下に薄青の傘の肌が見えた。傘の持ち主が立っているところは、この建物の玄関にあたる場所で、所在無げにくるくると傘を回転させる様子が、誰かを待っているのだと想像させた。
「誰です、」
「俺の恋人」
おそらくカカシの知り合いなのだろうと思われ、なんとなしに訊ねたテンゾウは、男の口から出てきたその言葉に意表をつかれた。
「先輩、いつの間に」
「ん? 結構まえよ。そうねえ、もう半年くらい」
「へえ……」
「気のない返事しないの。おまえも知ってるひとよ。アカデミーの、うみのイルカせんせい」
にっこりと、目だけで微笑むカカシにテンゾウは目を見開いた。
アカデミーに勤めるうみのイルカといえば、木ノ葉にひとりしかいない。熱血教師、人情家、涙もろい、おせっかい。評判は様々だが、総じてお人好しの感がある人物である。何事にも適当で、暖簾に腕押し、糠に釘、そんな諺がぴったりくるこの男、はたけカカシとは、似ても似つかない性格だろう。何よりテンゾウを驚かせたのは、うみのイルカは男ということだ。
「先輩、そういう趣味だったんですか」
「どういう意味」
「女だけが、欲望の対象ではなかったんですね」
「べつに、男だってやることはおんなじじゃない。入れて擦って出せるんなら、性別なんて問わないでしょ」
見境ないな、という言葉を呑み込んで、テンゾウはにっこりとつくり笑いを浮かべた。
「いいですね、待ち合わせでしたか。それは、楽しそうだ」
「そう、待ち合わせの約束、してたの。あのひと、迎えに来てって云ったら、本当に来るんだよ。俺、いつ帰るとか云ってないのに」
「……え、」
「もうね、三時間くらい? あそこでずーっと、俺を待ってるの。犬みたいだよね」
そう云って、嬉しそうに笑声を零すカカシは、頭の螺子が何処かに飛んで行ってしまったのかと思われるほど浮かれていた。
テンゾウは眉を顰めずにはいられない。
「なにしてるんですか。早く行ってあげないと」
「なんで?」
「なんでって。三時間も待ちぼうけ喰わせて、どういうつもりなんですか。イルカさんが可哀相ですよ」
「可哀相だから、いいんでしょ? ちなみにこれから、もう待たなくていいよって云いに行くの」
「は? いまさらですか? どうして。先輩、こんなところにいますけど、任務は明日からの予定でしょう」
「そうね。だから、おまえと呑みに行くことにした」
「はあぁぁ??」
呆れて素っ頓狂な声をあげるテンゾウに、カカシは妖しく光る右目を細めてみせた。
「ねえ、こんだけ待たされてさ、帰っていいよって云われたら、傷付くよね?」
「もちろんです」
「俺さ、あのひとの、そういうときの貌が好きなんだよね。こう、じんわりと、絶望が広がっているような?」
「……意味がわかりません」
「そう?」
カカシはかくんと小首を傾げる。
「道端に咲く、青や赤の紫陽花を、俺は綺麗だとは思わないんだよね。むしろ、雨に打たれて傷んだせいで、しおれて枯れたような色になっている花びらのほうが、手折りたくなるんだよ。わからない? そういうの」
くっ、と喉の奥で嗤うカカシに、テンゾウの躰からは一気に力が抜けた。
「……わかりませんよ」
呟くようなその言葉は、軽い足取りで待機所を出て行く男の背中に向けられた。
もともと癖のある人物だと思っていたが、あれはもはや変人の域に入っている。至極まっとうな感覚をもっているイルカは、カカシと付き合いを続ける限り、しなくてもいい苦労をするに違いない。
カカシの妙な一面を知ってしまったテンゾウは、最早窓の下を覗き込むことはなかったが、暫くして聴こえてきた風船の弾けるような音に、少しだけ相好を崩した。
どうやらイルカは、簡単に手折られるような花ではないらしい。
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