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3 イルカ
里での最後の夜です。
特に誰に挨拶することもなく、静かに発つつもりでした。
でも仕事仲間達だけには黙っている訳にはいきませんでしたから、大袈裟にはせず、食事会で終わりにしてもらいました。
門出だからと、笑ってくれたのが救いでした。私の気持ちを知っている友人も、眉をしかめながらも送り出してくれたのです。
もう、ひと月貴方にお会いしていませんが、私の心は目は耳は、貴方の全てを覚えています。どうしても忘れる事はできないようです。こんな私に……自分に笑ってしまいます。ええ、一生この想いを抱えて、生きていきましょう。

最後の、独りの夜でした。
殆ど何も持たず行くつもりでしたから、荷造りはしませんでした。部屋の物は全て、処分をお願いしました。思い出を持って行くのはきっと、私が我慢できないから。ひとつひとつ何もかも、貴方に繋がる思い出があります。
私は部屋の真ん中に、只座っていました。何もする事も無く、唯独り。
突然玄関のドアが叩かれました。
私は何か急を要する事でもあったのかと、玄関に小走りで向かいました。
でも、この気配は、このよく知っている気配は。

私の心臓は、耳に聞こえそうな勢いで鳴っています。
お願いだから、静まって。

ドアを叩く音は止みませんでした。貴方の声も聞こえて来ます。
ご近所にご迷惑ですから開けなくてはいけないと思うのですが、私の体は動きません。足が竦み、手も震えています。

ドアの鍵が壊れる音がしました。
目の前に。貴方が、居ます。
忘れようとして、でも忘れられない貴方が、居るのです。

脚の力が抜けていくのが解りました。倒れる寸前、私の体を受け止め抱きしめてくれた、貴方の体温を感じました。

泣きそうな貴方。
泣きそうな私。

私の耳に貴方の掠れた声が。髪が、と一言。
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