彼女は泣いていた。涙は零れていなかったけれど、少し丸まった背中は確実に泣いていた。
けれどその彼女にオレは声を掛ける事ができなかった。だって、なんて言えばいい。
立ち去ることもできずに、気配を断ったままその背中を見詰めていた。
やがてすんと鼻をすする音が小さく聞こえ、彼女は夕空を見上げて自分に言い聞かせるように大丈夫と呟いた。その背中はもういつもの彼女に見えたけれど、オレはもう知ってしまったのだ。

……駄目だ、気になって仕方ない。あれからすぐに彼女は笑顔に戻り、オレの部下の子供達にも屈託のない笑顔で接しているけれど。
無理をしている事が判る。表情筋が不自然に動くからだ。口は笑うように横に開くけれど、目の周りの筋肉が連動して動いていない。
何があったんだろう。聞きたい。慰めてやりたい。こんなオレでも力になれるならなりたいし、できればずっと彼女を守りたい。

……ああオレ、イルカ先生が好きなんだ。と唐突に理解した。
知らず知らずに目が彼女を追っていたんだって気付いて、なんだか凄く恥ずかしい。
「アスマ、何? オレがおかしい? 何でもないって、しつこいな!」
変なところで鼻が利くから、こいつにはもうバレてる。ニヤニヤといやらしい。
「あっイルカ先生、──あのっ、ちょっとお話があるんですけど飲みに行きませんか!」
そこへ偶然通りかかる彼女。本当に偶然だ。だが焦って食いつき気味に話し掛けたのが怖かったのだろうか、無言で首を横に振られた。
「……駄目ですか。解りました、また今度。えっ、次もないって……どうして。あの、オレが嫌なら、はっきり嫌いだと言って下さい。」
嫌われてはいないと思っていた。二人で飲みに行く程親しくはないから、突然こんな事を言われて警戒されただけだと信じたい。でも彼女の揺れる目がすっと逸らされて、胸の中がもやっと変な感情に支配される。
そうだそうだ嫌いなんだろってげらげら笑って、アスマよあまりにも酷くないか。
「お前に聞いてないんだから黙れ、髭剃るぞ。ねえ、どうしても駄目ですか。」
「いえ、違うんです。どうかもう少し時間を下さい。私は貴方を、決して嫌いだなんて思っていません。」
本人の口からしっかりと嫌われていないと聞けたから、もやもやはパアッと晴れてオレは心底安心した。
「イルカな、最近は親父からの菓子折りも食事の誘いも断ってるらしい。元気ではあるようだが。」
アスマによれば受付でも職員室でも、時間が来ればさっさと帰っているという。オレが中庭で彼女を見掛けたのは、帰る途中に涙が溢れそうになったからか。

それからも時折彼女を中庭のベンチで見掛けた。もう少し待ってくれと断られてからひと月は経っていたか。
オレの任務が立て込んでいるのが幸いして、彼女の姿を見掛けても声を掛ける暇はない。もう少し待ってくれと言われたんだ、拒絶ではなかったのだから我慢しよう。

やっと連続の任務が終わった。数日の休みが与えられ、オレは町を散歩していた。天気が良く気温も程々の九月半ば、ぼんやりするには最高だね。
後ろからオレに向けて走ってくる、ぱたぱたと軽い足音が聞こえた。それが誰かは判る。だからオレは傍の店の中を覗く振りをして歩を緩めた。
「あのっ、任務お疲れ様でした。この前は大変失礼しましたが、その分今日は一日お付き合いできます。」
ほんのり頬を染めてオレを見上げる彼女が、もう可愛くて可愛くて抱き締めたくなった。おいオレ、人前だぞ道端だぞ、我慢しろ。
「イルカ先生、じゃあ今まで待たせた訳を聞かせてくれる?」
「う……。」
「オレには聞く権利があるでしょ。」
彼女は俯いてもじもじしていたが、はあっと息を吐くとキッと顔を上げオレの目を見詰めた。
「お恥ずかしい話ですが、夏の間に夏バテしてはならじとしっかり食べてかなり太ってしまったのです。」
ポンと腹を叩いて下唇を噛み、ちらとオレの表情を伺う。だからそれ可愛すぎるからやめて。今すぐ攫ってっちゃうよ。
「だから元に戻すまではと思って、誰の誘いにも乗らなかったんです。」
おかげでそれ以上に絞れました、と最高の笑顔で笑う。
ふと思い出した。
「あのさ、オレ今日誕生日なの。」
物凄く驚いた顔をされたから、もうついでに言っちゃえと続ける。
「プレゼントにイルカ先生自身をくれない?」
「え、私なんかでいいんですか。」
あらら、意味が解ってないよね。でもラッキー! はいって頷いて先生をもらう事にした。
頑張ったみたいで確かにボンキュッボンだ。でも先生の体重が二倍になってもオレは絶対に嫌いにならない自信がある。だってイルカ先生っていうだけで可愛いもの。
「ねえ先生、また太っても恥ずかしくないよ。オレはむっちりしてる方がいい。違うな、正確にはどんな貴女も好きだから。」
真っ赤に熟れたイルカ先生がとても愛おしい。
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