33

イルカ先生は手首を掴んだままのオレを、眉を潜めて上目遣いに見た。睨んでいるつもりだろうが、あまりに弱々しくて効力はないに等しい。
こんなに辛そうな顔をさせたのはオレだ。そしてこんなに庇護欲をかきたてる顔をさせたのはオレだ。
その時抱き締めてしまいたい、と切実に思う不埒なオレを止めたのは先生の声だった。
「離して、下さい。」
ぼろぼろと溢れる涙を拭おうにも、オレがその手を掴んでいるから拭う事ができないのだ。力任せに腕を振って離せ離せと喚くイルカ先生を離してしまえば、きっと何でもないと体裁をつくろって明るく笑うのだろう。
だから離さない。オレから離さない。
「逃げないでくれたら。」
驚いて見張った目から零れた大粒の涙が、ぽたりとオレの手の甲に落ちた。
「…逃げません。」
ゆっくり指の力を抜くと先生は手首を振ってからオレの手を取り、落ちた涙を袖で優しく拭ってくれた。そしてまた倒木に腰掛けて、梅木の妹の墓を見詰める。
「ここは里の管理下にありますが、当分建設や開発の予定には入っていないので内緒で墓を作らせてもらいました。」
「じゃあ、妹の遺骨が?」
「遺骨は細かく灰にして、一番近い海に撒いたそうです。」
少し離れた距離に佇むオレにまっすぐに向かってくる目は、まだ遠いどこかを見ているようだった。
「イルカ先生はー、」
いや何でもないです、と呟くとオレは一人分の間を空けて先生の隣に座った。その間に目を落とした先生が尻を浮かせてすっと移動し、身体をオレに近付けた。肩が触れそうになる。
「俺の名前がこれですからね、海に興味を持っていつか行きたいってずっと言っていたらしいんですよ。」
「そうね、気になりますね。」
頷いて同意すれば、先生は少しむっとして肩を竦める。
「もっさい男に似合わない、可愛い名前で申し訳ないんですけどね。」
「別にもっさいって事はないでしょ。オレは初見から、先生にぴったりのいい名前だなって思ってたけど。」
隣を向けば途端に頬が染まる横顔が見えた。恥ずかしそうに俯くと、馬鹿を言うなとオレの膝を叩く。
なんだかその仕草さえ可愛いと思えるんだが、それを言えばからかっているのかと怒り出しそうな気がした。
「本当です。少なくともオレよりはいい名だ。」
「貴方は里一番の忍びらしい名前じゃないですか。睨みをきかせて、皆を守ってくれています。」
ばっと顔を上げると、身を乗り出して言い募ってくる。人の事でそんなに躍起にならなくてもいいのに。
「ありがとう、先生に言われるととても嬉しい。」
息が掛かる距離、少し手を伸ばせば体温が直接感じられるだろうが誘惑に負けてはいけない。
「梅木の家の墓はないんですか?」
思い付いた疑問を投げ掛けた。聞いてはいけないなんて思わなかったオレの言葉に、すうっとイルカ先生の表情が消えた。
「寺から追い出されたんです。先祖代々の墓はありましたが、両親が犯した罪がー、」
先生は上を向き、苦しそうに息を継ぐ。オレは続く言葉を待った。
「大きな犯罪に加担した事は事実ですし、それもあまりにも非人道的だと坊さんも地域の人達も両親を家の墓に入れる事を拒否して。」
「では両親の遺骨は。」
「火の国の、とある共同墓地に。無縁仏と同じ扱いになります。」
両親を捨てた。
そうしなければ梅木は住む場所をなくしていたのだ。死者に鞭打つ事はしたくなかったが、梅木はこの里の忍びとして生きていくつもりだったから。
「まだ両親が騒ぎを起こす前、小さなあの子を連れて俺と梅木と三人でたまにここへ来ていました。静かで空気が綺麗で、まず誰にも会わないのでのんびりできました。」
先生は思い出して目を細め、口の端を僅かに上げた。
「あの子は来る度に石を積み上げて遊んでいて、梅木はそれを墓にしようと思ったようです。」
「やっぱり家の墓には入れなかったんですか。」
両親はともかく、妹はきちんと弔ってやれたのではないか。
イルカ先生はふうと息をついて顔を手で覆った。そのまま肘を膝について力を抜く。丸まった背中に疲労が色濃く見えた。
「いいえ、ご近所に申し訳ないからと梅木は言いました。寺の住職には充分な金額を払って、永世供養という形にしてもらったんだそうです。」
梅木は二度とその寺に関わらない事にした。親戚もない彼には、他に取る方法が見付からなかったのだろう。
「それで、里にはもう見切りをつけたからあの村に逃げたと?」
結論を言えばそれだけの事なのだろう。妹の墓はただの石ころの集まりだ。梅木の後ろ髪を引くものは何もない。
「いつ抜けようと思ったかは聞いていません。心の中は複雑だとは思いますけど、俺には解らない事です。」
無理に梅木と距離を取ろうとしているのは、自分の立場を考えろとオレがそうさせたからだ。抜け忍と追い忍との間に私情を挟んではいけない、と叱ったからだ。
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