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十八

「お前さんみたいにぐじぐじ悩む奴には、考える隙を与えちゃならねえんだよ。」
青山の真剣な顔がずいとイルカに近付く。身体が動かず顎だけを引いたイルカの肩を掴んで、何を思い出しても私事は後回しだと強く念を押した。
いつの間にか側に座ったタイチがそっとイルカの手を握り、心配そうに無言で見上げてくる。まだ十にも満たない彼も、草の任務を正確に理解する忍びだ。自分は大人で中忍じゃないか、何を躊躇う事がある。
覚悟を決めたイルカはそれでも怖かった筈だ。一瞬カカシに向けた目が縋るように見えた。ほんの一瞬だけ。
うん、と自分に喝を入れ頷いてきっぱりと青山の目を見据えたイルカはタイチに先生凄いと言われたいから頑張りますよ、と笑いながらも膝の上の拳の震えは止まらなかった。
青山が綱手から預かった巻物を広げ、イルカに術を施した。半年分を一気に思い出すと脳の許容量を越えて人格にも作用しかねないから、睡眠時のみ徐々に発動する仕組みだ。
勿論ひと晩で記憶の全てが収納できる訳もなく、イルカの無意識の拒否反応にも寄る為何日掛かるかは不明だ。もしかしたら睡眠時だけでなく覚醒時にも突然思い出す可能性があるが、その時はどうなるのか想像もつかない。
「綱手様は、医療忍術が発達しても限度があるからお前を失うのではと危惧する。精神の崩壊は避けたいんだ、無理するな。」
一つずつでいい、急いで受け入れなくていい、とひかりが見せる笑顔はイルカの緊張を少し解きほぐした。姉のように、時には母のようにアカデミーで接してくれたひかりの存在が心強い。

帰り際、おもむろにタイチがカカシに駆け寄りその手をぎゅっと握った。
「はたけ上忍…イルカ先生を守ってね。」
大人達の会話からは解らずとも伝わる緊張で事の重大さを察したタイチはイルカを見ようとはせず、俯いたままお休みなさいと言い捨て逃げるように外へ出た。
はっと気付いたカカシはその背中に力強く言葉を投げる。
「大丈夫、約束する。必ずオレがイルカ先生を守るから。明日、またおいで。」
飛び出したタイチが玄関に舞い戻り、カカシに大きく手を振った。父を見上げて青山が頷くと、タイチは奥の部屋に寝ているイルカに先生また明日、と今度は弾むような声を掛けわーいわーいと走って行ってしまった。
「あの子、草になるんですね。」
イルカに背を向けたまま、カカシはぼそりと独り言のように言った。
「はい。」
二人だけになると部屋は静まり返ってしまった。カカシは部屋の隅に座り、疲労の濃い顔を手のひらで擦ると息を吐いて壁に凭れた。
「イルカ先生疲れたでしょう、そろそろ寝ますか。」
「はい、あの…そうしたいんですが眠れそうにないので、机の上に生徒名簿があれば事前準備にそれを読みたいんです。」
すまなそうにイルカが机を指さす。このまま悶々とするよりも気を紛らわせて訪れる眠りを待ちたい、兎に角何かをして不安を散らしたいのだ。荒波ナガレの記憶が戻れば生徒全員の事など思い出す、事前準備など必要ない。
カカシも重くなる空気を払う為に明るく答えてやった。
「名簿? 凄い量の書類だけど、これかな。」
一冊二冊、カカシは事典かと思える厚さのファイルを掛け布団に隠れるイルカの太股辺りに置いた。表紙をじっと見詰め、やがてイルカはぱらぱらと捲った。
「記憶がなくてもアカデミーと同じ纏め方をしていたんですね。」
出席番号順に一人ずつ綴じてあるファイルは差し込んで増やせる物だ。イルカは誰が読んでもその子の担任であるような錯覚を覚える程、細かく日々や行事の度ごとに所見を増やしていた。
かつてアカデミーではいつ自分が消えるか判らないから後任がすぐ生徒を覚えられるように、と教師は資料制作に力を入れていた。一般人の荒波ナガレでも本質は変わらないのか、とイルカは頬を緩めた。
ふと捲るページの間から何かが滑り落ちた。手に取って見た、封筒にしまわれた原稿用紙には覚えがなく、何だっけとそれを開いてイルカは絶句した。惨殺された一家の長男でイルカの教え子の、卒業に向け下忍として旅立つ意気込みを書かせた作文だった。
そうだ、抹消されてしまうならとあの子の存在証明として持ち出した。
黙ったままのイルカをそっと下から覗き込んだカカシは、まるで刺された痛みを堪えるような表情に驚いた。どうしました、と広げた作文の名前を見てああと納得しカカシは身を乗り出してイルカの肩を抱いた。
それが切っ掛けとなり、イルカの涙は溢れ出した。ぽとりぽとりと落ち続ける涙は、拭われる事なく作文を握る手を伝って布団に染み込んでいった。
「声を出して泣いていいんですよ。」
耳元に囁くカカシの優しい声に勘違いしそうだ、でも今ひとときだけ―。
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