5



カカシは一瞬、今のイルカが荒波ナガレという一般人だという事を忘れた。
―イルカが全く知らない他人の顔をする―。
怒りに溢れ出すチャクラを内に留めておけずに、身体中からぶわりと冷気にも似た禍々しい気が漏れ出てしまう。
「う、…痛っ。」
イルカの身体が、巨大な手に握り締められたように軋む。その声にはっと我に返ったカカシが、丹田に力を籠めてチャクラを抑え、途端に解放されたイルカは膝を着いて咳き込んだ。
「あんた、何をした。」
「…すまない、任務の後でコントロールができなかった。」
カカシもよろけて膝を着いた。見える部分だけだが顔が青白い。
だが具合が悪そうなカカシを助けようにも、イルカ自身も痛みに痺れた身体を動かせなかった。
時間がたちイルカが漸く手足を動かせるようになっても、目の前の忍びはまだ蹲ったままだ。
鍛えておいて良かったな、と自分の意思で動く身体に安堵した。
「お急ぎでなければ、少し休んでいってください。」
まだ少し痛む身体をほぐしながらイルカは台所に立った。突然酷い事をされたのに怒りはなく、不思議と怖くもない。何より彼が手負いの獣のように見えて放っておけなかったのだ。
こんなものでも落ち着けばいいのですが、と温かい茶を出して勧める。
「何かありましたか。」
話す気がなければそれで構わない、と言い添えて。
またもすまないと詫びて湯気の上る湯飲みを握り込むと、カカシは言葉を選びながら話し出した。
「オレは、どうしたらいいのか判らないんだ。」
居るだけというスタンスを作る為にイルカは脇の文机に移動し、鞄から取り出したテストの採点を始めた。話すだけでも少しは気が晴れるだろう、誰だってそんな時はある。
「あいつと別れるなんて、本当は微塵も考えていなかったんだ。」
意外な展開だ、とイルカは一瞬手を止めたが気取られないようにまた採点を始める。
「一緒にいたいと頷かせてあいつの生活を一変させて、それなのにオレは何も変わらない日々で。ただ甘えていただけだったんだ。全ての優先順位はオレが一番であいつは二番目で、それでも笑って言うんだよ、仕方ないですねえ甘えたさん。…オレはあいつに出会うまで、誰であろうと本心をさらけ出した事なんかなかったからね、人間らしくなれたのはあいつのお陰なんだ。あんたにも解るだろ、オレが許されていた理由。」
丸を付けるイルカの赤ペンの音が軽快に小さく響く部屋、間をあけてカカシが優しい口調になった。
「愛、だけだった。」
また手が止まってしまう。イルカは正誤を読み取る振りをした。
「他里の賞金首として手配書に載る有名な忍びではなく、ただオレという人間を愛して包んでくれた。それを息苦しいと突き放してしまったオレは、いったい何様なんだっ。」
血を吐くような叫びが、完全にイルカの手を止めた。
「あいつが別れを受け入れた瞬間に解った無償の愛を、オレは何故その時に認めなかったのか。何故追い掛けて抱き締めなかったのか。後悔だけを繰り返す日々はずっと、あの瞬間から続いてるんだ。」
声が震え、興奮に掠れ始めた。カカシは肩で大きく息を吐いて、気持ちを静めようと両手を握ったり開いたり、何度も繰り返す。
「あいつはもうオレを忘れたかもしれない。今更会いたくもないだろう。だけどオレは、あいつを、」
溢れる様々な思いを声に出そうにも、涙が邪魔をする。
「愛してる。」
掠れた声が脇のイルカに向けられた。その言葉に驚き、勢いよくカカシを振り向いてしまった。
ただ吐き出すだけにしてはあまりにも大きく、重い。まるで自分に愛を伝えるような言葉ではないか。
「届かなくても、ずっと心で叫び続けるんだ。愛してる。」
カカシが縋るようにイルカを見ている。
何故そんな目をするんだ。
涙でぎらぎらと光りながらも虚ろな目だった。
この人の心はその時から、真っ暗な海に流れ出してしまった。そして行き場のない感情は一生漂い続けるのだ。
この人が救われる事はないのだろうか。
「その人は、」
聞いてはいけないと思うのに、つるりと言葉が出た。
カカシが俯いて首を横に振る。
「もう、二度と戻らない。」
死んでいないなら、誠意を尽くせば関係の修復は可能なのではないか。
しかしイルカも、いや荒波ナガレもそれができなくて此処にいるのだ。
慰める言葉はない。
沈黙が続く。
「すまない、忘れてくれ。」
カカシはイルカの日記を乱暴に纏めて抱え、ベランダに出た。
「また、来てくれますよね。」
背中に届いたイルカの声は別人の筈なのに、あの頃と変わらない優しさだ。記憶がなかろうと、元の性質は揺るがないのか。
ふっ、と笑いが漏れる。
「オレの任務だから。」
イルカへの恩返しになればいい。
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