38

慣れれば大丈夫だとは思うけれど、長いことカカシ先生と呼んでいたからまだ当分は定着しそうもない。今も心の中でカカシ先生と呼んでしまった。
俺は日頃から記憶するものは口に出して繰り返しているので、いつものようにカカシさんカカシさんと自分にも聞こえない程小さな声で復唱した。
だがこの人がとても耳が良い事を俺は忘れていた。はい、と返事が息の掛かる程近い耳元で聞こえて身体がびくりと震えた。
滑らかで良い声は心臓に悪い。酒よりも俺を酔わせるようだ。
「え、いや、」
慌てる俺をくすりと笑うカカシさんが、なんだかいつもと違う雰囲気を醸し出していた。
「入っちゃ駄目ってラインを越えたみたいで、うん、本当に嬉しいなぁ。」
ああそうか、確かに俺は最初は誰とも距離を取る。自分の懐に入れるまでが長い自覚もある。
カカシさんの言うとおり、俺は人との間にラインを引いているのだろう。
「…すみません。」
我ながら嫌になる。カカシさんはそんな俺に気付いていながらも、その日が来るまでと見守っていてくれたんだ。
「俺…、俺の中で膨らんでくるカカシさんの存在を、きっとどこかでこれ以上はって押さえ付けていたんだと思います。」
自分の中で特別な人になってしまうと、もう心は引き返せなくなる。両親を亡くしたあの頃から、失う事も拒否される事もただひたすら怖かった。
「自分が一番可愛いから、傷付きたくなかったんです。」
今気付いた自分の本音。狡いよな、酷いよな。
「おや、オレには熱烈な愛の告白に聞こえるけどね。本音を吐いてくれたって事は、弱い部分をさらけ出して喰われる覚悟があるんでしょ?」
さっきより甘い声色に俺の息が止まる。カカシさんの中の獣が、俺の喉笛に噛み付くさまが見えるようだった。
でもそれは恐怖ではない。歓喜だ。
思わず嬉しいと呟いた俺を、カカシさんは場所も考えずに抱き締める。廊下には、まばらだけれど人通りがあるというのに。
明日から色々言われるのだろうけれど、まあいいかと腹を括った俺の笑みにカカシさんは更に腕の力を強くした。
「あの、俺、もう帰れるんですけど。」
このままでは恥ずかしいだけで、そう言い出せばカカシさんはえっと驚いて力を緩めた。
「ごめん、ちょっと夢の中をさまよってた。幸せすぎて。」
以前から可愛いところがあるとは思っていたけど、これはもうやられたとしか言いようがない。俺の顔はずっと赤いままなんだろうな。
「じゃあ途中まででも一緒に帰ってくれる?」
嬉しかった。はいってつい大声で返事をして、俺は急いで職員室の自分の机を片付けてカカシさんの元へ駆け戻った。
いつもよりゆっくり歩いた。この時間がずっと続けばいいと、二人とも思っているからなんだろう。
「いつか、手を繋いでもいいってイルカ先生が…、」
あ、と口を開けたままカカシさんが立ち止まる。俺は脇から顔を覗いた。
「どうしました?」
困ったように眉が寄っていく。右目の視線が俺から外れて足元へ向かった。
「なんだか…、ごめんなさい。オレは自分がねだるばかりで、貴方をなんて呼べばいいのかを考えてなかった。」
貴方を蔑ろにしていたんじゃない、と言いながらがっくり項垂れる姿がとてもビンゴブック筆頭のはたけカカシとは思えなくて笑ってしまった。
「カカシさんて、時々いきなり子供に戻りますよね。俺は気にしてませんけど、どうしたいですか?」
大通りの真ん中でいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。促してまた並んで歩き始めたが、よほど気落ちしているのか顔は上げてくれない。
「イルカ先生、イルカさん、イルカ、イルカ君…じゃないし。」
どうやら呼び方を考えているらしい。呟きが案外大きな声で聞こえて、俺はまた小さく笑ってしまった。面白い、と言っては失礼なんだろうが…面白いんだ。
「笑ったね?」
余裕がなくてごめん、と拗ねるところなんて誰かが知っているのだろうか。俺以外には見せて欲しくないって思ってしまった。
「呼び方なんて、無理に変えなくてもいいです。」
「そう?」
残念そうな顔だがほっとしたのも判る。日頃表情が乏しいと言われているのが嘘のようだ。
「さっき、何を言おうとしたんですか?」
手を繋いで、とか言っていたような。
途端にカカシさんは足早に歩き始めた。置いていかれると思った俺は、カカシさんの手首を掴んだ。気が付いていない筈はないのに、彼は俺を引きずるようにただ前を向いて歩く。やがて足は速まっていった。
「カ、」
お願いだから止まって。
声を掛けようとしたが、舌を噛みそうになって黙った。
仕方ない、渾身の力を籠めて俺はカカシさんの腕を引いた。一瞬前へ進めなくなって後ろを振り向いてくれたが、何かに気付いたように目を剥いて動揺し、素早く俺の手を外した。
そしてその為に俺はバランスを崩し、地面を正面に見た。俺は倒れていくらしい。
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