噂には、尾ひれが付いて胸びれが付いて背びれが付いて、ついでに髭まで付いていた。
ぬるぬるとカカシの胸の中を泳ぐ、鯰のように。

イルカの笑顔を見るたびに、それはまたぬるぬると蠢く。
―アンタ、誘われれば誰でもいいの?
心の中だけで問いかける。
目の前のイルカは書類の束を慌てて捲り、探し出すと勢いよくカカシを見上げて笑った。
「すみません、さっき風で飛ばされて急いで集めたままで。いや、言い訳ですが。」
丁寧に頭を下げる様子を、列の後方から眺める女がそんなイルカに微笑んでいる。
狙っている、とカカシには判った。いや正確には好意を抱いているのだろうが。
カカシは正面からイルカを見据え、おもむろに口を開いた。
「ねえイルカ先生、今夜の予定は?」
いきなりで、何を言われたか理解するのにたっぷり五秒は掛かった。
―迂闊だね、その間に犯す事もできるじゃない。
「えと、何も?」
自分の事なのに疑問形で、首を可愛く傾げて。
―ほら、また誰かが引っ掛かったよ。
「じゃあご飯食べよ。」
勿論酒も込みで、とお猪口を傾けるカカシの仕草に一瞬躊躇いを見せたが、イルカは小さく頷いた。
「うん、また後で。」
終わり次第連絡を飛ばすので、とイルカは笑って書類をカカシに渡した。明日からひと月の、上忍師の任務の大まかな予定表だ。勿論予定外は多発するが、予定表はないよりあった方がいい。
早く終わった下忍達は帰したし、カカシも少し休もうとまっすぐ帰宅した。
男同士で気軽に月に一度は飲むような仲だが、イルカのそんな噂は聞いたことがなかった。
始まりは最近ではないらしい。なのにカカシが知らなかったのは何故か。
胸には鯰どころか大蛇が住んでいるようだ。寝転んでもすぐ起き上がってしまった。
ならばと武器の手入れを始め、結果それに集中し窓枠に止まった小鳥のガラスをつつく音で時間経過を知る。
いつもの店。それはホテル街の真ん中にひっそりと佇む。
周囲にホテルが建ち並んでも土地も金もないと引っ越せず、畳めば生活に困る初老のおやじが一人で営んでいる。
案外忍びに会うことも少なく…まああんな店に事前事後に来る奴らなんかいないよな、とつらつら考えながらカカシは店に向かった。

通りの外からは店は見えず、存在すら知らない者が殆どだろう。イルカは行きつけだと言って此処を教えてくれたが、そう言えばイルカが行きつけである理由は聞いてない。
―ついでにホテルにも行きつけはあるんじゃないか。噂通りなら。

店には既にイルカがいた。
親父は最近需要があるからと、元々縦長の店を中央出入口の右脇からまっすぐ奥まで注文と配膳のカウンターを設置し、左は狭い個室を縦に並べた作りに改装した。
なので暫く休みだと言われてから初めて、新装開店の初日に来たのだ。時間が早く、第一号の客らしい。
なんだ、お金あるじゃないですか。とカカシが片頬で笑えば、親父は意味ありげに笑い返していた。

やけにしっかりした壁と扉。個室の中を見渡す。
「此処でヤる事もできるねえ。」
とカカシは端に寄せてある座卓に肘を着いて顎を乗せた。
「三畳ないか、でも充分寝てヤれますね。」
イルカが脚を伸ばして寝転んだ。
「カカシさんも大丈夫ですよ。」
殆ど体格の変わらない大柄な男二人でも幅は充分だし、脚も伸ばせる。畳ではなく弾力性のあるビニールのような柔らかい敷物は後始末も楽、まさしく寝転がって絡むには最適だ。
「親父さん、そのつもりで改装した?」
隣に寝転がって顔をイルカに向けたカカシの問いに、ゆっくり頷く。
「前から個室ではそういうのはあったらしくて、酔った勢いでその場でヤれるんなら好都合だと。」
俯せになって腕に顎を乗せたイルカが、上目使いにカカシを見た。誘うような。
―乗ってみようか。
「まあ飲んで食べて、後は何をしようが犯罪でなきゃいいんだものね。」
―でさあ、噂通りなの? アンタ。
寝たまま手を伸ばせば、イルカの頬に触れた。
酒を飲む前から、熱い。
「ねえアンタ、誘われれば誰でもいいの?」
カカシは昼間思った事を、そのまま口に出した。
「何ですか、それ。」
「俺、知らなかったんだけど。」
「何を誘うんですか。」
イルカはわざと微妙に噛み合わない会話にしていた。
「俺はまだ、アンタを誘った事がない。」
「誘われてますよ、今日も。」
「いいの?」
カカシがずりずり寝転んだままイルカに近寄った。イルカは微動だにせずそれを見ている。
「一緒にいるでしょうが。」
「こんな事も?」
イルカに跨がり唇を重ねる。
「待ってましたよ。」
とカカシの首に腕を回し、イルカは耳に噛みつき囁いた。

手を出さないアナタに焦れて、根も葉もない噂を流したのは、オレですから。
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