イルカ先生は絵が上手い。
筆で水墨画のように幽玄な景色を描くかと思えば、鉛筆で濃淡を付けて触りたくなるような立体を平面に閉じ込める。
私が一番好きなのは淡い水彩画だけれど、絵の具の準備が面倒だと言って滅多に描いてはくれなかった。
忍びには観察力と記憶力を求められる。イルカ先生には訓練だぞと、幾度となく唐突に何かを描かされる事があった。
自分の位置と太陽の方向から一本の木までの距離を求める計算では、突然松の木を描けと言われたり。
二人組で十秒お互いを観察させ、背中合わせにしては全身を描かせたり。
後々任務で確かに役に立ちそれをありがたいと思ったが、当時は皆が意味も解らずに反発して先生を困らせたものだ。

イルカ先生は絵が上手い。
アカデミーの行事のポスターは一手に引き受けていた。可愛い動物などを描くと、行事が終わったら欲しいと予約が入る事も多かった。
何処かで習ったのかと聞かれると、言葉より伝えやすいから練習したら描けるようになったと先生は恥ずかしそうに笑っていたのだ。

火影が七代目のナルトに替わった時、イルカ先生はアカデミーを辞めた。まだ早いと誰もが言ったけれど、先生はやる事があるんだと嬉しそうに笑ったそうだ。
最後の日に、私はご挨拶をしようと職員室に顔を出した。
薄暗い部屋に一人でいた先生は十数年分の書類を机の上に積み上げて、もう捨ててもいいのだけれど思い出だから捨てられないって口をへの字に結んでいた。
活躍する教え子達や若くして亡くなった子達、全ての思い出。
思わず手伝いますよと言うと頼むと頭を下げられ、私はイルカ先生と一緒にそれらを箱詰めしていった。
ふと手に取ったのは、かつてよく見た先生のスケッチブック。といっても中は決して見せてもらえなかったけれど、先生はよく放課後の教室や校庭で一心不乱に何かを描いていた。それこそ観察力と記憶力を総動員していたのだろう、脇目も振らず真剣な姿に近寄る事も憚られた。
イルカ先生は私に背を向けて紙の束を選り分けている。見てもいいですよね、と心で問い掛けて私はスケッチブックの表紙を捲った。
どれくらい描いてあるかと軽く捲れば鉛筆画が続く。後ろの方は数枚、薄く色が付いていた。
最初は木の根元に座る人の後ろ姿だった。服から察するに忍びで、太い幹に寄り掛かって眠っているように首が傾いている。誰なのかは判明しない。
次のページを音をたてないようにそっと捲る。
やはり後ろ姿だが、今度は歩いている全身だ。多分前のページと同じ人物、猫背で下を向く若いだろう男の人。
見たような、知っているような、でも私には解らなかった。
三ページ目は何処かのベンチに腰掛けている、これも同じ人…だと思った。コートのフードを深めに被りちょっと疲れたように俯いて顔が見えないから、やっぱり誰か解らない。
数枚は似たような鉛筆画が続き、それを見るうちに私は何故か胸が苦しくなってきた。だから一度顔を上げてそっと深呼吸をした。
イルカ先生は全く私の行動に気付かず、段ボール箱の中に取っておきたい物を詰めていた。
私は先を見たくて堪らなかったから、手元を隠すために先生に背を向けてしまった。少し震える指で続きを捲ったスケッチブックは、突然色の付いた水彩画に変わっていた。
木の根元で胡座をかいて一匹の犬と顔を突き合わせる男の人。それはパックンとカカシ先生だった。
私は慌てて前のページへ戻り、鉛筆画の全てがカカシ先生だという事に気付いて驚きに声を上げそうになった。まさかという驚愕と、やはりという納得の思いが交錯する。
私はぎゅっと口を結ぶと先へ進んだ。
テーブルに肘を着いて居眠りをするカカシ先生、大分距離が近くなっている。
次に、同じように眠るカカシ先生は何処かの座敷に転がっていた。見える部分は右目だけでそれも瞑っているのに、頭の後ろに組んだ手を枕代わりにしてとても寛いでいる様子が窺えた。これまでのページにも共通しているのは、優しい雰囲気が漂う事だ。
私には絵はよく解らないけれど、線が柔らかい気がするのだ。愛情をもって丁寧に描かれ、少しもカカシ先生の雰囲気を壊す事なく。
その先は、と捲るとそっと私の手に大きな手が重ねられた。はっと顔を上げた正面にはそのカカシ先生が、人差し指を口元に当てて私に微笑んでいた。
勿論いつも通り口布はしたままだけれど、両目が細くたわんでふわりと笑っている。
止められたページにちらりと見えたのは素顔のカカシ先生だったからだろう、もう見ないでと私にしか聞こえない小さな声で囁かれた。
ああ、そうか。二人だけの内緒事なのだ。
私はスケッチブックを閉じて机に置いた。
私に背を向けたままのイルカ先生に病院からの呼び出しが掛かったと告げると、先生はああ解ったと片付けに夢中になってそのままの姿勢で答えた。
そっと職員室を出る。
カカシ先生が後ろからイルカ先生を抱き締めたのが見えたところで、私はドアを閉めて歩き出した。
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